HOME > 記事一覧
《慈覚大師円仁》山寺立石寺
慈覚大師円仁は、延暦13年(794年)に下野国都賀郡の豪族「壬生氏」に生まれ、9歳から都賀郡小野の大慈寺の住職広智について修行を積み、15歳で比叡山に登って伝教大師最澄の弟子となりました。その後、最後の遣唐僧として唐にわたり日本の天台宗を大成させた偉人です。
慈覚大師円仁が開祖(または中興)とされる寺が県内外に数多くあり、山寺(立石寺)のある山形県においては、山形市の柏山寺や千歳山・万松寺、南陽市二色根の薬師寺など10を越える寺を開いています。
これは、慈覚大師が天長6年(829年)から天長9年(832年)まで東国巡礼の旅に出、この折に天台の教学を広く伝播させたことが大きな基盤となっています。
参考/おくのほそ道-芭蕉と山寺
慈覚大師円仁が開祖(または中興)とされる寺が県内外に数多くあり、山寺(立石寺)のある山形県においては、山形市の柏山寺や千歳山・万松寺、南陽市二色根の薬師寺など10を越える寺を開いています。
これは、慈覚大師が天長6年(829年)から天長9年(832年)まで東国巡礼の旅に出、この折に天台の教学を広く伝播させたことが大きな基盤となっています。
参考/おくのほそ道-芭蕉と山寺
2006.06.04:山寺紀行:
《山寺》とは
山寺の正式名称は「宝珠山立石寺」と言い、860年に清和天皇の勅使を受けた天台宗の僧「慈覚大使円仁」により開基された東北を代表する霊場です。
本山は比叡山延暦寺にあり、根本中堂には本山より移し灯した「不滅の法灯(ふめつのほうとう)」が、千余年もの間光を放ち続けています。
元禄2年(1689年)には俳人松尾芭蕉が山寺を訪れ「閑さや巖にしみ入る蝉の声」という句を詠み残し、その句が刻んだ「せみ塚」が今も残されています。
参考/山寺観光協会
本山は比叡山延暦寺にあり、根本中堂には本山より移し灯した「不滅の法灯(ふめつのほうとう)」が、千余年もの間光を放ち続けています。
元禄2年(1689年)には俳人松尾芭蕉が山寺を訪れ「閑さや巖にしみ入る蝉の声」という句を詠み残し、その句が刻んだ「せみ塚」が今も残されています。
参考/山寺観光協会
2006.06.04:山寺紀行:
《不滅の法灯》山寺立石寺
不滅の法灯は、伝教大師最澄が比叡山上に登り延暦寺の前身「一乗止観院」を開いたのに始まります。以来1200年以上にわたって途絶えることなく不滅の法灯として守り続けられてきました。
山寺(立石寺)は860年に延暦寺より分灯されますが、戦国時代に建物が焼失し灯火が失われます。ですが改めて延暦寺の法灯を分けてもらうことで引き続き法灯を守り続けてゆきます。
その後、1571年に織田信長により比叡山が焼き討ちに合い、不滅の法灯が失われてしまったかに思われました。しかし、幸いにも立石寺に不滅の法灯は分灯してあったため、その灯火を分けてもらうことによって比叡山の不滅の法灯は復活し、現在まで互いに法灯を守り続けることができているのです。
参考/京都を歩くコラム
山寺(立石寺)は860年に延暦寺より分灯されますが、戦国時代に建物が焼失し灯火が失われます。ですが改めて延暦寺の法灯を分けてもらうことで引き続き法灯を守り続けてゆきます。
その後、1571年に織田信長により比叡山が焼き討ちに合い、不滅の法灯が失われてしまったかに思われました。しかし、幸いにも立石寺に不滅の法灯は分灯してあったため、その灯火を分けてもらうことによって比叡山の不滅の法灯は復活し、現在まで互いに法灯を守り続けることができているのです。
参考/京都を歩くコラム
2006.06.04:山寺紀行: