今回は、『律令体制と置賜群』についてお届けします。
大化の改新により、中央政権の影響が出始めていた飛鳥時代をへて、
奈良時代初頭、出羽の国ができたのでありました。
高畠を含む置賜地方も新政府の律令体制下に入ったわけです。
律令体制というのは、中央政府が全国の土地、
人民を一括して直接支配する組織体制であります。
もともとあった、地方行政組織には、国としての長官、
国司には、中央出身者だけが任命され、
各地方に赴任したのであります。
地方豪族の家柄のものは、その下で群司か軍団の幹部に任用され
里では、農民の中の有力者が里長(りちょう)になりました。
1里は50戸に編成され、すべての人民は、詳しい戸籍に記載され、
その戸籍に基づいて、班田収受が行われるとともに、
さまざまな税が国家の手に正確に徴収される仕組みとなりました。
置賜群は、小郡として、三里位としても150戸が存在していたことになるし、
郡役所は高畠町の小郡山にあったことも理解することができるのではないと思われます。
陸奥の国が発祥し、出羽の国建置後、その所属に入った置賜は同じ体制下にあったわけであります。
この律令制が足かせとなり、陸奥の国東北に大きなうねりが来ようとしていました。
◆高畠の歴史 021号◆
2013.07.14:toda:[◆高畠の歴史・東北の歴史◆]
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