今回は、『高畠町の源姿』についてお届けします。
高畠町の源姿を知るには、陸奥国と置賜群を知る必要があります。
現在の山形県内で初めて群(こおり)の政治区分で歴史上に現れるのは、
置賜群と最上郡のみであります。
大化の改新(645年)後これまでの世襲制度を廃止し
新しい中央官制を定め官僚制を整えました。
650年のころから全国にわたって国・群(こおり)の
区画を定め地方制度を整えています。
陸奥国はこの制度の整備の中で生まれた国であります。
陸奥国に含まる群は、今の福島県下に当たる9群と
山形県下の置賜と最上でありました。
山形県の内陸部が早く開拓がすすめられました。
陸奥国の時代の最上郡は村山、最上を含めた地域だったようです。
更に、和銅5年(712年)9月今の荘内地方に出羽の国が置かれました。
その中に属する群は出羽郡1つでありましたので、
正式な群ではない仮の群、権群(ごんぐん)として田川郡が設置されました。
しかし、1つの国に1群では格好がつかないということで、
すでに陸奥国に属していた、置賜、最上郡を分離して
出羽の国に所属させたのであります。
それは和銅5年10月のことでした。
ここで山形県の源姿が出来上がりました。
その後、陸奥国は今の青森、岩手、宮城、福島が含まれました。
出羽国当時は出羽を(いでは)と呼んでいたようですが
今の山形県と秋田の一部が含まれていたようです。
そこで置賜群の政治の中心はどこであったかについてですが、
高畠町小郡山にあったとする説が有力であります。
出羽国、置賜群の政治の中心が小郡山であることが、
何と日本書記に書かれていたのです。
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