今回は、『高畠町の古墳時代の生活の舞台』についてお届けします。
町内の古墳の分布から生活の舞台を想像することができます。
まず人口の推定ですが、町内の古墳の数を80基とみた場合
80人の被葬者がいたことになります。短期間でつくられたものでないにしろ、
当時は約25名の集団単位で生活していたと考えられ、
その統領が埋葬されたのが古墳と考えると、
80基×25名=2000人となり古墳時代の
高畠近辺の人口は約2000人と推定されます。
住んでいた場所は台地でありました。当時の平地は、
沼地や湿地でとても人の住めるところではなかったようです。
台地は水の便がよく大風の当たらない日当たりがよく
見通しもきき後ろに山林のある場所であり、
人の住む場所として適しており、
その近辺に古墳が造られたと考えられます。
弥生時代から農業が盛んになり、
古墳時代も農業を生業として多くの人々が
協力して行わなければならない状況から
一定の場所に長く住むようになり集落が形成されてと思われます。
集落ができると集団生活をまとめる人が決められ、
それらの集落のいくつかが集まってまた長になる人が出て、
豪族が誕生するきっかけとなったようです。
当時も女性の労働が占める割合が大きく
夫が妻の家に通うということが行われていたそうで、
働き手であった娘を手放すことを望まなかったためではないかと言われています。
高畠の古墳は古墳時代末期(750年前後)であり
時代はすでに奈良時代に入っております。
大化の改新の簿葬礼の交付(645年)にもかかわらず、
高畠の住民は古墳築造を続けていたことになります。
時代的には、羽山古墳以前に出羽の国の建置(712年)
それ以前に奥陸奥の設置(654年の頃)があり
前後しますがそのころに高畠の源姿が出来上がっています。
◆高畠の歴史 017号◆
2013.06.13:toda:[◆高畠の歴史・東北の歴史◆]
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