第三十話「生かされていることを思う②」

 あの未曾有の惨劇から、すでに三ヵ月が過ぎました。人間の記憶力とはこの程度の物なのでしょうか。『絶対に忘れない』と思っていた事でも、頭の中では少しずつ『あの恐怖』が遠ざかって行く事を感じます。私たちは震災の地に住んでいて、積み上げられた瓦礫の山を目にしたり、仕事で走る道が大きく崩れていたりしますので『あの日の事』を忘れる事はありませんが、東京以西に住む人達にとってみれば、すでに過去の出来事に成り掛けているのかもしれません。しかしそれは有る意味正しい時の流れなのだと、私は思います。
 私自身も自分で経験した事と共に、友人や知人から色々な体験談を聞き、今までの生活では有り得ない現象をまるで自分がしたかのような気になっています。震災の日、災害の地に居た事だけでも特別な出来事なのに、友人の口から発せられる色々の災禍が、あの強く長い揺れの『記憶』を通してまるで自分自身にも起ったかのように感じさせるのです。しかし、それは個人の人間が持つにはあまりに悲惨な現象の連続であり、直接的体験、擬似的体験に関わらずその重みで自分自身が潰されそうに思える時が有ります。
 おびただしい数の方が亡くなり、今も多くの人が行方不明の状態ですが、いつまでも今のままで居る訳にはいきません。何時かはそれを『過去の事』にしていかなくては為らない時が来るのです。そうして行かないと、何時まで経っても『何故、我われは生かされているのか?』の答えに近づく事が出来ないように思うのです。今は心の中を上手く処理する事が出来ずとも、語り継がなくてはならない現象を我々は体験したのです。語り継ぐという事も『生かされた』理由の一つだと思います。
 その行動の一つと言う訳ではありませんが、妻の発案で今年の黄金週間は大阪・広島・岡山・神奈川の親戚や友人のお宅を訪問する事にしました。皆さんから送っていただいた『支援物資のお礼』をかねて、『起った事』が現実に近い形で心の内に有る間に誰かに聴いて貰いたくて、長い旅に出る事にしました。
 大阪に住む妻の叔父さんや従兄弟は、家族みんなで色々な物を送ってきてくれました。広島の私の姉や、神奈川の仕事仲間が送ってきてくれた多くの支援物資は私の家族だけでは多すぎるので、近所の方や石巻の石屋さん達にも使ってもらう事にしました。その物資のお礼が言いたくて、何かを伝えたくて三千キロ以上走る事にしたのです。
 連休の前半は『お墓の復旧工事』と東松島市などで『床下泥だし活動』をしておりましたので、自宅を出発するのは連休後半になりました。初日の走行予定の道路は東北・北関東・長野・中央・東名阪の各自動車道と名神高速道路。利府しらかし台I・Cから京都南I・Cまでの約千キロを一気に走ります。
 晴天の空の下、東北各地の被災地に向かう車の行列(渋滞)を右手に見ながら快適に車を走らせます。出発日のタイミングも良かったのか、関西方面に向かうクルマの量は多くも少なくも無い、丁度良い感じでした。
 次の日、大阪堺市に住む妻の叔父さんは、叔父夫婦と三組の子供夫婦、六人の孫達の家族全員で出迎えてくれました。二十数年振りの訪問とは言え、想像以上の歓待に我が家の三男坊は「こんなに親戚が居たの?」と思わず言ってしまうほどです。
 居間に座るなり、叔父さんの方から津波の話が出ました。あの日、テレビはすべてを伝えていたのです。被災地の我々は停電していて、何の情報を得る事も出来ませんでしたが、彼らはその瞬間を『生放送』で見ていたのでした。そう、十六年前の『阪神』の災害を我々がテレビで見ていたのと同様に。
 当日の生々しい状況を目の当たりにした叔父達もまた、我々に何かを伝えたかったのです。親戚(我々家族)が宮城に住んでいる事は、彼らにより身近に地震を感じさせたようです。
 叔父の家の行き帰りに観た大阪の街は、何事も無かったように日常が流れているように見えます。しかし私達の様な被災地の人間が現れると、記憶が遡って目の前に鮮明な映像が甦るようです。しかしこれからは、それもどんどん風化していくでしょう。
 岩手県の、ある海岸に近い村に『これより低い場所に、家を建てる事なき様。』と刻んだ石碑が有り、その事を守った村人は、一人の被災者も出さなかったと聴きました。そうした事が出来るのも、生き残った人達が『災害』を語り伝えたからに他なりません。

 それともう一つ大切な目的が、この旅には在りました。広島と岡山のお墓参りです。『生かされた』事へ、感謝を込めてお墓参りしてきました。
2011.06.15:米田 公男:[仙台発・大人の情報誌「りらく」]