第二十九話「生かされていることを思う①」

『りらく』に連載を始めて三度目の春が来ました。今年の春は、桜の花をゆっくりと愛でる事も無く、足早に行過ぎていきました。と言うよりも、そういった心の余裕を持つ間もなく、静かに散っていった様に思います。しかし、短い時間であっても身の周りに「桜花」の気配を感じられる事は、人々の心の中に僅かながらでも『平穏』をもたらせる事が出来たとも思います。
 言葉に表せないぐらい過酷な災害が私たちの生活を揺らし、すべてを押し流した後でも、おびただしい瓦礫の中で静に咲いている「桜花」を到る所で見ました。石巻市の石屋さん宅の「後片付け」の行き帰りの道中でも、東松島市の知人の倉庫の整理で大曲地区の震災ゴミ集積場にトラックで数往復走ったときも、杉や樫の樹の葉が潮水の影響で茶色く変色しているにも拘らず、桜木だけは花を枝先に着け「私は頑張っているぞ」と言っているようでした。
 地震発生から二ヶ月以上の日々が流れ、いまさら同じ体験した皆さんに、あの日の事を申し上げる必要も無いのでしょうが、私の経験を少しだけ書かせて頂きます。
 あの日の私は、次の日(三月十二日)に予定していた墓石工事の準備の為に、石巻に向かってトラックで走行していました。大きな揺れは有ったものの、まさかこれ程の災害が起きているとは想像も出来ませんでしたので、地震の破壊的な力で路上のそこかしこに出来た大きな段差を乗り越えながら、三陸自動車道を『お墓』を載せたまま、豊里インターチェンジから石巻方面に向かって南下していきました。
 今想えば幸運な事がその日の朝から起きていたのです。当初の予定では午前中に石巻に行き、地震発生時間の前後には石巻の石屋さんと打ち合わせをしながら翌日の現場作業の準備をするはずでした。それが、ちょっとした時間の変更で、午後から豊里の石屋さんの工場に行く事になり、そこであの大きな揺れを感じたのです。ラジオから大きな警報音、アナウンサーの「警戒してください。大きな地震が来ます。十メートル以上の大津波警報が発令されました。」その繰り返しだけが、今も耳の奥に残っています。最初の予定通りに石巻に行っていたら、私も大津波の災禍に逢っていた筈です。
 それでも私は石巻の石屋さんの状況を確認したいと思い、三陸道を走りました。河北インター手前で、何故かこれ以上は前に進めない様な気がして三陸道を降りると、目の前の北上川に架かる天王橋は大渋滞。東に迂回して裏道から石巻方面に向かうのですが、石巻方面から多くの自動車が県道三十三号線を北上して来ます。異様な雰囲気を感じながらも、北上するクルマとすれ違いながら石巻の運動公園近くまで来たときに、私自身の嫌な気分は頂点に達しました。『あぶない』と感じたのか、私は石巻市を望む小高い山にある市営霊園にトラックを走らせていました。今思うと、丁度その頃、大津波が石巻の街並みを飲み込み始めた頃だったのです。
 霊園下の金蔵寺を過ぎ、市営火葬場の駐車場に車が溢れているのを視ながら山を登っていくと、所々に有る霊園の駐車スペースにはバス・トラック・自家用車、あらゆる種類の車が処狭しと、止まっていました。霊園の頂上辺りから北上川を見ようとしましたが、石巻市内が見渡せる事が出来る場所はクルマで一杯です。三陸道を走行していた頃から降り始めた雪が勢いを増し、普通タイヤ装着の私のトラックでは、これ以上ここに留まっていると家に帰る事が出来なくなります。悩む事も無く霊園のある山を降りた私は、来た道を反対側に向かって走っていました。ただ来る途中で見た、大きな亀裂の出来た土手の上の道は通るのは止めにしました。
 雪が降り続く県道は、追波湾方面から県道三十号線を逃れてくる車(後で判った事ですが、被害の大きかった大川小学校方面からの避難車両です)との合流で渋滞するようになりました。雪が当たるフロントガラスを見ながら「そうだ、電話・・」何度か妻の携帯を呼び出しましたが、なかなか繋がりません。と、ある瞬間「大丈夫?」の妻の声「今から帰るから。」と私。
「トラックで無理しない方が良いわ、乗用車で迎えに行くから。」
「いや、家から動かない方がいい。」大学から息子が帰ってきている事も確認できた私は、出来るだけ無理をしないように家路に付きました。ただいくら遠回りになっても海に近い道路は避けるように、思いつく限りの迂回路で帰ったのです。
 今思っても、何故あの様な状況で的確な判断が出来たのか不思議でなりません。そういった意味では、ある面私も家族も「生かされている」と思うのです。この極限の状況の中では、ちょっとした行動の違いで大きな差が出る事が有ります。
「生かされている」それはどう云う事なのでしょうか?
 次号もこのつづきを書いてみたいと思います。
2011.05.15:米田 公男:[仙台発・大人の情報誌「りらく」]