小春日和の午後、川西町吉田の「交流館あいぱる」に出掛けた。
道中すっかり稲刈りも終わって、農家一段落で温泉にでも湯治しに出掛けてる事だろう・・
等と考えながら「猫橋」前で停車して猫橋の欄干のネームプレートを写真撮影した。
最近この橋を発見して喜んでいる。猫派としては、何故か意義有り様な橋に感じてしまう。
しかし現実には近くで犬が吼えている。
漢字で「猫橋」、ひらがなで「ねこはし」、川のネーミングも良くて「誕生川」。
ちょっと北には以前紹介した獅子舞橋がある、なんとなく歴史的に曰くありげな地域である。
元、川西町立第二中学校の交流館あいぱるに、小松豊年獅子踊りの獅子頭があるのだ。
しかも朱の三頭獅子踊りの獅子頭なのである。
大幕多人数型の獅子舞には珍しくないが、置賜では見た事が無い。
拝見してみると塗り替えや修復も充実しているので経年は感じられない朱塗りの獅子頭だった。
形は張り子の型を用いているので黒の獅子頭とほとんど同じである。
雄獅子の後付けされた牙の手前に、小さな犬歯が有り珍しい。今まで見た獅子頭の犬歯は下顎
から突き出した牙だけだった。
私が制作した獅子頭の型も保管していた。この型に和紙で張り子作り、漆で固めて着色し金箔で
仕上げる。朱の獅子頭の眼には銀箔が施され、いい具合に錆びて味がある。
戴いた飯野敬太郎氏著の「小松豊年踊の生まれるまで」という資料にはこの朱の獅子頭について
書かれていた。
この獅子頭は文化◯年の新調か修理かの記名があったと聞いている・・京都か江戸の伎楽面師による
作品で一見龍頭を思わせるが学者の話では青獅子(カモシカ型)であるとあった。
昭和25年当時の飯野氏の記憶では道具類、とくに衣装は豪華で金糸銀糸を用いて刺繍されたもの
もあり、まるで歌舞伎の衣装のような立派な物だったが劣化が激しく廃棄されたらしい。
笛についても、現在の七本調子と違って七穴の三本調子の篠笛だったらしい。同じ旋律でも笛の調子
が違うと印象が異なってくる。笛の構造も長く、穴の感覚も広かったようで肺活量を求められる難し
い奏法と熟練を要したとある。
その後上杉藩の倹約令により、豊作の年だけ踊る事を許された。しかし豊作の年には年貢も増え
農民の生活は困窮していたという。衣装も以前の様な豪華なものは禁止され、黒を主調とした作業衣
で現在も止むを無い伝統を引き継いでいる。
飯野氏の著作には厳しく辛い貧しい時代の農村の若者達の雑草力、逞しさ、そして儚さを感じさせる
話が紡がれていた。
この記事へのコメントはこちら