金子熊太郎の彫刻を追って川西町の菊田「高福寺」に訪れた。
アポイントをお願いしに参上して数回・・寺の前の家に人の気配有り、呼び鈴を鳴らす。
しかし寺は無住で管理は高豆蒄(同町こうずく)の善明院のご住職が兼務されているという。
日を改め善明院に尋ねお願いすると、快いご返事を戴いた。
二時間後の約束で時間が出来たので、小松の仁王堂に寄ってみた。こちらのお堂の彫刻も
素晴らしい獅子があるのだ。しかし、柱の下の位置に有る為か金網でしっかりガードされ
見え難い。二回程来ているが気がつかなかったが、後ろに回って下から見上げると記名が
刻まれているのを見つけた。
ところが肝心な所に鳥の糞らしき物が付着しているではないか・・・写真を撮って後から
じっくり解読してみた。
「 山形住 関 正年 刻ス 」のようだが「 関 」は門構えが略されているのか不確定だ。
白鷹町の瑞龍院や成就院の彫刻師に「 関 正 」(せき ただし)という方がいたので
先入観でそう見えてくるのだ。こちらのお堂のご住職に尋ねれば判るかも知れない。
小松の詳しいオジサンの方が判るかな?
また酒の肴にする謎を収穫出来たので喜びながら、まだ時間があるので今泉の稲荷神社に
向かった。先日、長泉寺に取材に行った際、ご住職から聞いた話によると明治始めまで
今泉稲荷神社の隣に「せんじゅ院」という修験の寺があったのだという。
そんな話が気になって訪れてみたのだ。こちらの獅子頭の修理や、獅子幕の制作、裸まつりの菊田
稲荷神社が無くなり、その獅子頭がここに来た話等、気になる話がいっぱいあるのだ。
善明院のご住職との約束の時間になったので、すぐ近くの高福寺に向う。
入り口はもう、真新しい材料でガッチリ雪囲いがしてあった。獅子宿もソロソロだなと頭に過る。
早速、欄間を拝見すると観音菩薩様の見事な彫刻だった。
観音菩薩が蓮の池の側で肩肘をついて瞑想中の御姿だろうか?
欄間彫刻の定番である松竹梅や岩や雲を配した幅一間の作で、左手の欄間は対照的に波浪の様相の
激しい動的な場面である。熊太郎の得意とする波飛沫や雲が生き生きと彫り刻まれている。
熊太郎の観音菩薩も初めて見たが素晴らしい技量を感じさせる仕上がりだ。
然もすると獅子どころか仏像も残しているかも知れない。
廊下側中央正面にも変わった欄間があった。一対の龍が描かれて背景が切り抜かれている。
これから欄間を彫る途中の下描き状態の様な作品である。
熊太郎の生家で拝見した下絵を見てもそうだったが、絵師としての才能もあったことが証明
されたようだ。
廊下の龍の欄間から目線を左上に写すと多数の奉納札があり「寄進 大光院 一金拾両 」
等の札の中に「一金二十円也 金子貞則 寺造作ニ付欄間刻代金ノ内」と記された木札を
見つけた。正に金子貞則は改名した熊太郎である。
渾身の欄間制作の代金から高福院に寄進したという記録なのだろう。ちょうど其の下に目を移
すと子孫の「金子森一(しんいち)」氏の名もあった。
更に薄暗くなったお堂の左奥には、仏像が多数並べられている。その中央上部には
見事な延命地蔵尊が安置されていた。片膝立てて右手を頬に・・・これは欄間彫刻に
彫られた観音菩薩と同じでポーズだ。
熊太郎はこの像をモデルに欄間に彫り込んだのかもしれない。
つづく
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