前回取材の金子熊太郎家から東に五・六キロに南陽市宮崎 綱正寺がある。
中大塚に用事の際、記録に熊太郎の作品が綱正寺にあるというのを思い出した。
しかも、こちらに獅子頭が三頭あるという情報を得ていた。
すでに稲刈りが始まっている。
黄金色の田圃の農道を突っ切り、松川を渡ると宮崎地区は直ぐである。
網正寺の創建は元和二年(1616)越後出身の土豪 安部右馬助である。
右馬助が宮内に土着し、宮内の前という意で宮崎の地名のいわれになっているそうだ。
網正寺のご住職は、わたくしの突然の訪問にも快く対応して戴いた。
獅子頭については不明だが50年前迄は、観音堂の例祭に寺から獅子回しが集落を巡り、獅子
回しが終わって寺に戻る頃には獅子幕が、ご利益を求める信者に引き裂かれ
ボロボロになっていたのだという。確かに耕雲の獅子頭に端切れが残っている。
行者たちが幕の端を拡げ練り歩く、宮内熊野の獅子回しの形。
獅子頭は三頭有り、直ぐ南の法師柳の佐藤耕雲の作と、宮内の菊人形創始者の菊地熊吉之作
(明治27年~昭和49年)の作の獅子頭が50年前まで使われていた可能性がある。
佐藤耕雲の獅子頭は顎が破損し、麻の幕の残骸が付着し、かなり重く荒彫りの獅子頭だった。
独特の赤と黒のツートンや、耳や目のバランスは耕雲独自の美的感覚なるものだろう。
川西町の下奥田の田護神社や黒川の稲荷神社と同じ時期に作られたのだろう。
下奥田の田護神社の獅子頭
黒川の稲荷神社の獅子頭
網正寺の云われある宮内の熊吉の獅子頭は、熊野大社の獅子頭を意識し脳天の鏡を大きく
彫り込んでいる様だ。熊吉は宮内の獅子の様に鏡を埋め込んでいるだろうか?
この迫力!
三頭目の獅子頭は大破し、真っ二つになり紐で辛うじて繋がれているという状態だが
見た瞬間に高畠の高房神社で見た獅子頭が重なった。
延享三年(1747)270年前 柳 亢右衛門の作とはっきり記名が残っていた獅子頭と
似ていたのだ。独特の鼻の作りや瞳の彫、埋め込んだ耳の作り方、大きな舌等
亢右衛門の作に間違いないだろう。
その他、類似した獅子頭は米沢西藤泉の大雷神社の獅子頭と同じである。
顎の構造や鼻の形、巻眉の形から堀金の證誠寺大日堂の獅子頭の作者も同じではないかと
疑っている。近辺に、かなり亢右衛門の作の獅子頭がありそうだ。
いまも齢270年の亢右衛門の獅子頭に出会った昨日の興奮覚め止まず、写真を眺めては
その迫力を感じつつ大破した獅子を復元したい想いが湧いてくるのだった。
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