中大塚熊野神社の総代に案内され西大塚の金子熊太郎家に訪れた。
さっそく座敷に置かれていた幅90cm程の熊太郎作の見事な龍の彫り物を拝見する。
神社に納める筈だったが、何か気に入らぬ事があったらしく唯一自宅に残った作品である。
従弟の金子 豊夫が玉眼と彩色して仕上げている。
熊太郎の作の獅子頭の小品も残されていた。米沢の広幡一之宮神社の獅子頭を彷彿させる形だ。
越後系の様式で、白鷹西高玉の瑞龍院の彫り物も手掛けたとあり、同所稲荷神社の獅子頭の
作者の可能性も出て来た。
彫刻の型紙や材料の仕入れの資料も残されていた。
白龍の作の掛け軸を見せて戴いた。
その箱の中にくすんだ灰色の内箱が入っていて、いずれにも記名があった。
外箱には熊太郎の息子二代目「茂」が熊太郎の希望によって「金子 豊」が制作したものとある。
内箱には 明治の中期に名匠の誉れ高き先祖貞則(32才で熊太郎と改名)
白龍と親交あり面接の折りに揮毫(きごう 文字や書画を書く事 )をうけし逸品なり
二代目茂が改装す・・。
先祖貞則 小白川荒尾源地内(天狗山あたり)より掘り出せる神代杉なり・・・とある。
このくすんだ箱の色は確かに神代杉の味わいである。
この裏書きを説明する写真も発見した。記録には明治37年(1904)飯豊町小白川部落天狗山にて
神代杉を発見・・とある。写真は明治の物とは思えない程鮮明で、巨大な神代杉の木口を中心に
発掘の現場を生々しく写し出していた。
お話を伺った方の話では、この写真の中に熊太郎が写っているという。しかし、体格の良い方だった
という話で誰が43才の熊太郎かは不明だ・・・。
今回の取材で彫刻師熊太郎の足跡がようやく現れて来た。
これを元に各地に残された作品を取材したい。
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