同町堀金の熊野神社史や隣の證誠寺の大日堂の棟札、同所宝蔵院の鬼子母神に熊太郎の記名が
あり、その存在を見事な彫刻の裏に覗かせていた。
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また金田 章著の「土方弘海と長谷部吉之助」に北越岩沢村出身の菅原鹿蔵の弟子の1人として
白鷹町浅立文殊堂再建棟札に名を残していた。
実は以前から中大塚の熊野神社総代の方に金子熊太郎の話を調べてもらうようお願いしていた所
熊太郎の存在が浮かび上がってきた。
そして熊太郎の子孫が立派な家系図と功績を「金子家系統書」に詳しく残していた。
その貴重な資料をコピーさせて戴いたのだ。
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それによると熊太郎は文化元年に「貞則(ていそく)」として生まれ、明26年に熊太郎と改名。
熊太郎は豊田村時庭(現在の長井市)在住の「多田野縫次」氏に就き大工業を修得後、越後の
村上町(現在の村上市)菅井某(菅原ではないか?)に師事し彫刻を就業、此の間飛騨の高山の
工匠にも師事し就業を重ね、菅井師匠へ帰った時は立派な一人前以上の工匠になって来た。
越後からの帰省の旅路で各地の神社仏閣や民家を巡り建築・指物・彫刻の腕を磨いた。
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熊太郎の作品は以下の寺社の仏壇や拝殿彫刻に残されている。
荒井「積善寺」、菊田「高福寺」、八幡「成就院」、現在今泉の長泉寺「国生寺」、
白鷹町山口「安楽院」、飯豊黒沢「光伝寺」、東新田「牛谷家」、南陽市沖郷宮崎「綱正寺」
飯豊 椿「本長寺」、白鷹西高玉「瑞龍院」の龍、飯豊落合の地蔵尊、西大塚八幡神社前の
「高麗明神」等等 数々の作品を残していた。
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堀金宝蔵院 鬼子母神の彫刻
熊太郎家の龍の彫刻を、後に熊太郎の息子の妹の長男「獅子彫り師 金子豊夫」が仕上げたと
ある。また、注目すべきは獅子頭も制作していた記録があり、現在西大塚の金子家に残されて
いるので後日取材したい。
この金子熊太郎の家から西に数百メートル西の中沖地区に同時期、獅子頭を数多く制作してい
る「渡部重衛門」の家がある。同じ地区に彫り師が2人居た事になる。まだこの2人の
関わりを記録している文献は見つかっていない。
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