川西町の「中郡村史」に面白い伝説を見つけた。
何遍も言うようだが今年は置賜をアチコチ飛び回ったので、かなり土地勘が深まった。
川西町の高山といっても他所の方は、直ぐ分かる方は少ないだろう。
今年、川西町の中学校の十字路北側に「森のマルシェ」という直販施設が出来た。
その十字路を高畠方面に向かって直進し、最初の信号十字路を過ぎ、誕生川の橋を渡って直ぐ
左に獅子舞塚の獅子明神があったのだ。
昨日、小松の詳しいオジサンこと渡邊敏和氏に電話して尋ねてみたが余り詳しくは無かった。
「獅子舞塚獅子明神」などと聞けば獅子舞い関係者は興味津々なはずだが、詳しいオジサンは
そこまではドップリ獅子の世界に漬かっていないようである。
場所が確定したので、川西町フレンドリープラザ図書館で「中郡村史」を調べると出てきた。
「高山獅子舞塚物語」である。以下引用
ここで郷土の伝誦を一つ取り上げておこう。高山の長沢五郎左衛門屋敷裏に獅子舞い塚があ
り、何時の頃からか獅子舞い明神が祀られている。
その昔、運慶という旅人が通りかかり、急病に苦しみ一夜の休息を頼んだ。
この家の人は手厚く看病してやったので、病は治ったが、旅のさ中で、恩に酬い
ることが出来ないが御礼の印にというので二体の獅子頭を彫刻して進呈し、何処へともなく立
ち去った。
しかるに獅子頭が夜な夜な、飾り付けていた床の間を抜け出して、東の方二町許りの草原に出
て、舞い遊んでいる。不思議に思う半面に人々に危害を加えてはと、おそれた主がそれを石棺
に閉じ籠めて土中に埋め、その上に松を植えた。さて、松の古木は約五百年の樹齢といわれる
が、仮に五百年が正しくとも、これを以て年代を推定する事は出来ない。植換えもあり得るの
で当てにならない。また運慶というのは話の内容から彫刻家であり、鎌倉時代に登場する有名
な仏師をさしている。
運慶は生年、歿(ぼつ)年共に不明であるが、十二、三世紀に生きており、仏師湛慶(たんけ
けい)の父で父子並称される、当時人も知る代表的な名仏師。主として京都、奈良に在って次
から次に大作に携わり名作を残している。この人が若い修業時代に全国を行脚したかも知れな
いが、人に知られる様になってから東北を廻国(かいこく)した形跡はない。従って当の運慶
その人であるかは兎も角とし、弟子かこの時代の名仏師が廻国中たまたま、この地に話題を残
す事になったのかも知れない。獅子頭が夜な夜な遊びたわむれて人々を驚かしたことは奇妙な
ことで、そのまま信をおけない。ただ運慶の名にかかわりを持つ人がこの時期に修行廻国をし
たかも知れないし、そのことを素材にした伝誦としては受け取れるのではなかろうか。
京都、奈良生まれの仏師が、地方の新しい気運、特に鎌倉武士の本拠地である田舎を廻り、
当代好みの彫刻の技をみがいたのかも知れない。これらの仏師の廻国には必ずこれを保護する
在地の長者がおるので、情深いこの家の主とは、当時のこの屋敷の主のことで、長沢家の先祖
とつながりがあるかも知れない。運慶、湛慶にかかわる伝説が全国各地に存在するのは凡そ
(おおよそ)その様な歴史的意味を語っているものである。因に長沢五郎兵衛家は創立年代、
古い由来など一切不明であるが、舘堀を廻した約千坪に余る屋敷は旧家の条件をそなえてい
る。この土豪屋敷については後に別項で述べることになっているが、長沢家もまた獅子舞塚乃
至獅子明神に結び付く鎌倉以来の旧家であるかも知れない。舘堀を廻した千坪(約三反)屋敷
は鎌倉時代の土豪屋敷の規模であり、運慶伝説と結び付けてもよい。
鎌倉以来の旧家であり、室町期・江戸時代を経て今日におよぶと見るべきであろう。
(後述土豪屋敷の項参照)
・・・・とある。
さて・・長沢家で看病したという旅の仏師 運慶とは?
運慶と快慶に制作よる東大寺金剛力士像は有名すぎる大作である。あの運慶だろうか?
長井市の総宮神社の隣に位置する、お堂のご本尊である馬頭観音像は同じ様に運慶の作と伝え
られている。
長沢家に一対の獅子頭を納め、その後長井の宮村に訪れ馬頭観音像を彫りあげたと考えると
現代人が考えそうな歴史ロマンだろうか?
鶴岡市の六所神社には「庄内住 久慶の作」と記名ある江戸時代中期に作られたという獅子頭
が伝えられている。
河北町をはじめ置賜でも、京都の仏師集団である七条仏所の慶派の仏師達の作が最上川舟運に
多く見られることを考えると、この物語の真偽もまんざらでもない。
獅子舞塚の獅子明神に石棺に入れられ埋められたという獅子頭一対は今、どうなっているだ
ろうか?
耐久性のある漆が施されているとすれば、五百年経っても石棺の中に存在している可能性もあ
る。
居場所を探して見たいという衝動に駆られて来る。
現代の地下の調査する技術を駆使すれば石棺発見くらい夢ではないだろう。
長井の総宮神社の「総宮神社略誌」には創始時代の古くなった獅子頭を石棺に入れて埋葬した
との記述が存在している。
また脚本化された卯の花姫の伝説には、戦で傷を負った八幡太郎を敵方の大将とは知らず
看病した卯の花姫が八幡太郎と恋仲になった。つい父親である片倉小十郎の戦略を伝えてしま
い父親が戦死してしまった。それを悲観し野川の上流三淵に身を投げ龍神に化身したという
・・その龍神を招き獅子頭に宿し、祭を執り行うのだという。
石棺に入れられ埋められたという獅子頭は、埋められず総宮神社に伝えられたという説は
突拍子もない話だがどうだろうか?
この記事へのコメントはこちら