株式会社長井製作所

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テレビや新聞等で、裁判沙汰となるニュースが沢山ある中で、刑事裁判の冤罪は検察官や刑事の横暴が問題となるが、民事裁判では、ゴネ得じゃないかと思われるものが非常に多く見受けられる。
現在TPP問題で第二の開国等と言われているが、鎖国時代以前の裁判の基本は喧嘩両成敗で、片手落ちの判決に対して「忠臣蔵」のような騒ぎとなっている。
従って、民間においての子弟教育は、片手落ちとならないように「自己責任」を重視してきた。

以前にも書いたが、品質不良の発生で現因追及すると、自分に責任は無く、全て他人や材料、設備などの自分以外のせいにする人が多くなっているのだから、ゴネ得は世の中の趨勢かも知っれない。

法律至上主義の裁判制度は、独裁政治や専制政治と比較すれば、素晴らしい制度であるが、民主主義・自由主義が長年続いた結果、社会性を持った動物である人間は自己主張を強くしなければ、存在価値を認めて貰えなくなってきた。

消費者保護を目的にPL法を制定し、「弱者救済」は錦の御旗、葵の印籠の如く、弱者救済の不公正を批判する事自体に、批判を浴びてしまう世の中となっている。PL法では、取扱説明書等で注意事項を書いてあれば、製造責任を問われる事にはならない筈だが、「注意書きの字が小さ過ぎる」とか、「裏面に書いてあり、裏までは読まない」等と批判される始末である。
自動車事故での当事者同士の言い争いを見ても、アパートやマンションの隣同士の言い争いを見ても、お互いの自己主張が強く、調整つかず、裁判沙汰や、傷害事件・殺人事件まで起きてしまっている。

大きな事件となる前に、発生原因は相手の責任ばかりでなく、何割かの自己責任がある事を自覚しようではありませんか。
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超借金大国でありながら、歴史的な超円高に苦しむ日本国にある我が組合も、国外の経済状況を肌で感じ取る為、韓国の中小企業を視察してきました。

この度の研修旅行は、ハプニングの連続で、新潟空港発が羽田空港発に代わり、現地に到着すると、宿泊のホテルが急に韓国最高級のホテルに変更になり、仕事で複数回訪問している幹事役のS社長でさえ、慌てざるを得ない状況でした。



視察先は、プレス金型工場で、取り扱っているのは自動車部品、我々の製品より大型の自動車用のドアフレームや、建設機械のフレームなどでしたが、韓国の自動車メーカーのみならず、GM、Ford、VWなどの海外メーカーにも積極的に納入しており、為替相場がウォン安で続いており、更に売上拡大を目指しているとの事でした。





工場見学後は、統一展望台で、北朝鮮を望遠鏡で覗き、人力による農作業や、道路を歩いている人などが見えましたが、機械化された韓国の生活レベルとの格差が歴然としているのに驚きました。(写真の倍率ではこの程度にしか写せませんでした。)


この度の研修では、為替相場に左右される環境の中でも、生き残るためには一工夫も二工夫も必要な事を感じ、前向きに挑戦しなければと思いを新たにしました。

我々の若い時代にも、年輩者から最近の若い奴という表現をされたものであるが、昭和末期から平成生まれの若い人達を見ていると、我々世代と明らかな違いがある。最近の若い人達は、教わった事は出来るが、教わらない事は一切手出しをしないことだ。

ある時、孫の学習に、経験上の様々な手法で教えようとしたら、母親から、「学校の先生に手法の異なる教え方はしないように言われている」と叱られてしまった。

明治維新後や第2次大戦の敗戦後、日本人の識字率の高さ、計算能力など基礎教育が徹底していた事は国際的にも認められてきた。それが、周囲の東アジア諸国が植民地化される中、独立を保ち得た理由であり、戦後、軍事費が必要無かったとは言え、技術立国・高度成長出来た理由と言われている。

「学ぶ」の本来の意味は「真似る」であり、「習う」と合わせ、「学習」という単語が出来た。「勉強」という単語とは明らかに異なっている。真似る学習をしてから、勉強で個人ごとに考える事が必要なのではないか。(真似た考え方しか出来ないから、教わらない事には手出しが出来ないのだと思う。)

門前の小僧の格言は、未だ字も読めない子供が、寺の門前で清掃をしていて、毎日の読経を聞いている中に意味や内容を理解する以前に御経を覚えてしまったという話である。又、読書百回の格言は、同じ本を百回も読むと、作者の意図が自然にわかってくるという話で、教育の最初は、暗記させる事ではないかと思います。

昨今の教育は、手法や、考え方を教えていると言うが、個人の自由な発想による考えを画一化して、個性が見失われてしまったのではないかと危惧している。

日本の総理大臣が、ほぼ1年毎に変わり、長期的な方針の基での外交・内政が行われず、国際的にも歴史的にも日本の存在が矮小化いる今、メディアは、切れ目のない支持率調査で政治家を一喜一憂させているのではないだろうか。
メディア調査の支持率の乱高下は、民意の表れであると称しているが、選挙の投票と、支持率調査の回答は一致しているのだろうか。時期が異なるとはいえ、揚げ足取りとなっているように思われる。

確かに政治家の人間性や、公約の虚偽などにより、裏切られたと感じれば投票時点と異なる内容になる事もあろうかとは思うが、これらの支持率を重視していては、時間のかかる政治課題などは到底解決出来ない事になるのではないだろうか。

過去の歴史上の政治家と比較しても、現在の政治家は確かに見劣りするが、支持率調査という人気投票により、ポピュリズムに陥り、大局的な思考を停止させられているように思える事がある。

又、選挙の開票速報などでも、出口調査とやらで、開票して即、当選確実のテロップが出される事が多いが、特ダネと同じく、情報の早取り競争が過激化していると思いませんか。以前、小生も出口調査された事がありますが、個人の考えで投票したもので回答する気になれないと拒否しました。

メディアは、世論を支持率などで客観的に把握していると言いますが、メディアのみならず、Webなどの情報が溢れている現在、取捨選択出来ず、個人毎に考える事もなく、メディア記事がそのまま世論となっている感がある気がします。

こんな事を書いて、メディア批判と受け取られると、そのしっぺ返しはとんでもなく怖く、「言論統制をするのか」と激しく反論されるばかりでなく、当方のある事ない事、不利になるようなデマ情報を流すなど、剣では出来ないような暴力行為に及ぶ場合もあり、油断できません。

「筆は剣より強し」の格言があります。強い者ほど謙虚に自省する必要があるのではないでしょうか。

過去にあった話ですが、とある製品でクレームが発生してしまいました。内容的には、寸法精度ではなく、突起部の曲がり具合という外観面でのクレーム内容でした。大量ロット製品で、良品・不良品が混在しているので、明後日まで、選別して再納入せよと返却されました。

休日でしたが、都合のつく社員5名ほどに休日出勤して貰い、検査担当者がクレーム内容を説明し、選別作業を開始していました。1時間ほど経過した時点で、5名の選別結果を確認したら、Aさんが良品と判断した程度のものを、Bさんは、不良品と判断しており、A〜Eさん5名の判断基準が、それぞれで異なっていたのです。

説明した検査担当者にどのように説明したと聞き質したら、クレーム内容をサンプル無しの上、口頭の説明のみで、開始させたとの事。

寸法不良、角度不良などの測定具や検査治具を使用出来る客観的な選別作業ならいざ知らず、外観不良の様な選別作業者の主観に頼るような場合には、口頭説明だけではなく、サンプルを提示し、且つ、作業開始後、しばらく作業者の側で選別作業を注視して、自分の説明内容が確実に伝わったのか確認する必要があると諭しました。

品質検査問題に限らず、客観的に尺度の無い人間関係では、自分の主張した事が、相手に正しく伝わったのか確認する事が、良好な人間関係をつくる上で必要十分条件なのではないでしょうか
又、主張を聞いた人も、自分の受取り方が正しいのか、質問などを通じて確認すれば、お互いの協力で良好な人間関係となるでしょう。

弊社の構内に、樹齢?年のケヤキの巨木があります。

来社されるお客様に、「かなりの大木だが、樹齢は何年ですか」と尋ねられますが、測定した事はございません。

弊社の歴史を調べると、創業者の先祖が現在地に、明治20年 製糸工場を創業し、その時点でも周囲の樹木の中では、大木として存在していたとの事。その時点からだけでも約120年経過しています。

昭和57年に区画整理が行われ、道路が整備される時点で、その他の雑樹木は伐採してしまいましたが、「あまりの巨木で樹木霊があり、商売に支障が出ては」と一本だけ残して現在に到っています。

通常、こういう樹木は剪定作業などしないのでしょうが、区画整理により、建物が周囲に立ち並び、枝が建物の屋根にかかったり、大型トラックの通行にも支障が出てきましたので、剪定作業を業者さんにお願いしました。
鬱蒼とした枝葉を落とした姿は、まさに坊主頭と言えるような姿に変身しました。素人考えで、こんなに坊主にしては大丈夫かと心配される姿ですが、玄人の庭園師にお願いしましたから、数年後には、以前にもまして枝葉を伸ばしてくれるでしょう。
会社も、今年は東日本大震災、円高と厳しい環境下にあり、坊主頭に散髪した看板樹木と一緒になって逆境を乗り越え、成長したいと考えています。

昭和の高度成長期頃までの日本では、先人や先輩、そして両親・祖父母などの経験者を敬い、教えを請い、行動を見習う事を当然の姿として来ました。従って、教えて頂く指導者には尊敬を込め、「先に生まれた〜先生」と読んできました。

しかし、最近の状況を見ていると、指導者として認められるのは、必ず資格を持つ学校の教育者や、講演会などの名の売れた評論家ばかりで、経験者(歴史の実体
験者であり、身の回りに沢山存在している)は軽んじられているように思えます。(教育者や評論家の全てが役不足という訳ではありません。)

人の集合体である組織でも、大量仕入れや大量生産によるコストダウンの効率化を目指した、企業や銀行の合併による大型化、更には、政治の面でも地方分権が叫ばれながらも、既得権益を持つ中央政府は権力を離さず、責任が不明確になるのが眼を覆わんばかりの状態となっています。
結果、その巨大化した組織をコントロールするだけの器量を持った人物が揃わず、制御不能となっているように見えます。

今から20〜30年前、第2次ベビーブーム期の子育て時期に、赤ん坊が徐々に首が据わり、寝返りをし、這い這いをし、つかまり立ちや高這いという正常な成長過程を経るのが普通なのに、栄養状態が良いのか、這い這いをせず即、高這いをしたり、つかまり立ちする子がいて、赤ん坊の眼線の高さの成長段階を経ない急成長(一足飛びの成長)した子どもは、成人になってから、異常行動を起こすのでは、などと心配されました。

人間の精神的な成長過程でも、社会が徐々に拡大していくような過程(親子関係、祖父母・親族を含む大家族関係、更に隣人関係)を経て、より大きな社会(幼稚園、学校)へと進まなければ、組織をコントロールする立場になるなどは困難となるのではないでしょうか。

コンプライアンスという言葉が、あらゆるところで使われるようになりました。日本では、本来の意味の規則を守るというより直訳的に「法令順守」という意味で使うのだそうです。

先日読んだ本の中に、
「法律のみで世渡りしようとするのは、油の切れた車を運転するようなものである。 油は切れても、車は動くことは動く。 しかし動くごとにキイキイと嫌な音がする。 乗っている人も乗せる人も不愉快である。 キイキイという音を聞かされる近所の人々も迷惑する。 しかも、労力の多い割合には速力は極めて遅い。 もし油をさせば、車は軽快に動く。 世の中も法律一点張りではうまくいかない。 極端な場合には、法律の制裁に触れない限りは何をしても良いというような考えをもつ者もあるが、もし、そうなったなら、社会はきわめて無味乾燥なものとなってしまう。 礼節という油をさして、はじめて円満に世渡りが出来るのである。」とありました。

著者は、明治・大正期に活躍された偉人ですが、100年後の現在社会の世相を言い表しており、革めて反省させられています。

第2次大戦の敗戦後、日本では、個人の自由・権利の主張が強く、信仰の自由は無宗教に近く、「良心」や「礼節」、「仁義」「忠孝」という言葉が死語になって、社会生活のルールは、法律のみとなっていますから、正に、現在に生きる人間として反省させられる一文です。
カタカナ語を否定するわけではありませんが、現在の人間関係がギクシャクしていると感じるのは少数意見ではないと信じます。

自由と束縛、権利と義務。互いに矛盾する命題で、若かりし頃には友人と議論し合ったものです。最近のわが国では、個人の自由・権利のみが主張され、束縛(規制)や義務は無視されているように思います。

学生時代に読んだ本の中に、「杭から100mの紐に繋がれた羊は、自由が無いと考えるのか」との命題がありました。紐に繋がれているから束縛されて不自由だと考える人、半径100mをはみ出そうと考えれば束縛(不自由)だが、半径100mの中は、紐に繋がれているとはいえ、束縛は無く自由だと考える人。どちらが正解というわけではありません。

羊1頭に杭は1本で、複数の羊がいる場合、お互いの紐の範囲内では、それぞれ束縛のない自由を謳歌できますが、異なる羊同士のぶつかりが出来、そこでは争いが出来てしまいます。

羊を人間と考え、紐の長さを社会の大きさと考えてみて下さい。観念的ですが、社会の束縛から解放された人間は存在が難しくなります。
束縛(規制)を遵守し、義務を果たしてから、自由・権利を主張するようにしなければならないと考えます。


他人に依頼事があって、なかなかその依頼事を受理して貰えないときに、「俺を信用してくれ」という言葉を耳にします。言葉が空振りしているように感じます。

この度の原発事故に対する政府発表の放射線被ばく問題で、「直ちに人体に影響の出るものではありません」とか、総理大臣の退陣問題や、脱原発問題についての言葉を聞いて、信用・信頼出来ないと感じている人がほとんどではないでしょうか。

会社の仕事や、個人(家族)の生活でも同様のことが言えるのではないでしょうか。社内の公用語を英語にした会社の報道がありましたし、英会話学校のコマーシャルで我が家の公用語を英語にするなどと言われ、日本人のグローバルな表現力不足が問題視されています。確かに、英会話能力を向上させるのは否定するものではありません。

しかし、信用される人間になっていなければ、表現力があっても、聞いて貰えるわけではありません。現在の総理大臣の発言を聞いても、野党時代の人気取り言動を見ていますので、どんな素晴らしいことを言われても信用できるものではありません。

他人は、その人の行動をある程度長期に見定め、信用出来る人・信用出来ない人の判定をし、話合いに応じてくるものです。
従って、自分が信用されているのか、信用されていないのか、自覚できる筈です。言葉だけでなく、行動で信用される努力が必要です。

以前にも、歴史を知ることの大切さを書きましたが、第2次世界大戦の戦争経験者の年代の方達に、自分史を書き残そうとするブームがありました。

偶々、我が社の創業者も同じような年代であり、私が30代で入社した時点で、会社の社歴も30年を超しており、会社の将来を目指す為にも、温故知新が必要と考え、会社の歴史を書き残して欲しい旨お願いしておりました。

了解の返事を貰ったわけではありませんが、お願いしてから15年位経過し、書類整理をしたら、「備忘録」なる原稿を発見し、読んでみると、自分の家の歴史から、転業して現在の金属加工業に到る経過が書かれており、我が社の歴史を改めて知ることが出来ました。

子供の時分から見ていた会社の姿、入社後に先輩から聞かされていた会社の姿に加え、経営当事者の決断する経過や実績を知ることが出来、その後の自分の経営判断の大きな基礎となりました。

最近の方達には、「過去の事にとらわれず、先の事を考える」とばかりに、歴史を軽視する傾向があるのは、判断ミスの危険があります。未熟者の経験不足を補うものが歴史なのです。

愈々、研修の成果を確認する技能検定試験 実技部門が始まりました。検定員、検定補助員の注視を受けながらの緊張の時間です。
何度も練習したのに、こういう場になるとやっぱり上がってしまうな。
派遣した会社の為でもあるが、自分個人の為にもなるのだから、落着いて、深呼吸して頑張ろう。
他の職種の実技試験も、ここ数週間の中で実施されます。

わが国には、人生への戒めや、組織運営への戒めとなる諺が沢山ある。
今回の「地震・津波」に対して、「想定外」などと表現されているが、正に人間としての「驕り」というべきか。
戦後日本では、信仰の自由と称して子供が生まれてお宮参り(神道)、年末のクリスマス(キリスト教)、葬儀は大多数がお寺(仏教)と、御都合主義とでもいうべきか、精神的規範となる宗教は無くなっている。
しかし、戦前までの日本には、天災が多く、四季の明確な自然を敬い、八百万の神として祭って来ていた歴史を持っている。「気を抜かず、そして驕らずに向き合っていれば、自然は無慈悲な振舞いに及ぶ事はない」という教えも残っている。
原発事故の長時間の電源喪失はありえないなどという言葉は、正に気を抜いたものであり、人間の驕りと言っても過言ではない。
会社でも、「労災事故が無くて安全だ」、「不良品が出ずに高品質だ」などと、驕り、慢心しているととんでもない事故や、クレームが発生する危険性が増加する。御用心・御用心!


政治の世界に限らず、学校や企業、その他、団体などあらゆる組織で、リーダーシップを求められるのですが、民主主義で、各個人の自由な発想や自由な発言が可能であれば、強いリーダーシップを発揮するのは、非常に難しい事となります。

組織を構成する大多数の意見に従えば、大衆迎合でリーダーシップを持っていないと批判される場合があります。又、組織構成の大多数の意見を無視すると、独裁と批判されてしまう場合もあります。

リーダーは、組織という船の船長であり、組織をどの方向に進めるのか判断(決断)しなければなりません。組織構成員を見て方向を決めるのでなく、組織構成員に背中を見られているという認識が必要なのです。

表・裏とか、右・左の二元的判断は最終局面での決断であり、前段階では、器の大きい人間性で組織構成員からの信頼性を得る事が必要なのでしょう。決断をせず、右往左往したり、失敗の言い訳をしたり、責任を転嫁しては、当然信頼を失ってしまいます。

品質管理を徹底しても、不良品の発生を完全なゼロには出来ません。だからと言って品質管理をしない訳には行きません。完全なゼロを目指して限りなく努力する事が大事なのです。
かつて学校を卒業し、サラリーマンに成り立ての頃、製造現場の安全担当となり、先輩に目を瞑っても安全な職場を目指せと言われ、反発した思い出があります。スタッフが目を瞑っても安全な職場を作ったら、作業者は安全に対する気配りを忘れ、とんでもない時にとんでもない事故が発生する危険があるのではないかと、反論したものです。
今回の東日本大震災後の福島第一原発の事故の報道を聞く限りでは、想定し得る事故対策は全て出来ており、安全であると考えていたが、想定外の津波で電源が停止し、メルトダウンという原発事故では最悪のケースになったとの事である。
トラブル発生時にはどのような対応をするかマニュアルは必要でしょうが、マニュアルに頼り切ってはいけないのではないでしょうか。人間技に完璧はない事を自覚しましょう。

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