長井市中央地区公民館

 当寺は古来奥の高野(こうや)と呼ばれ、東北における真言宗の
名刹である。
室町時代永享8年 名僧宥日上人を中興開山として、現住職は50世に
当たる。
明治維新までは38の末寺を持った常法談林の寺であった。
 境内の大銀杏は周り約7メートルで宥日上人の手植えと伝えられて
いる。
 遍照寺の塔頭であった普門坊の馬頭観世音は霊験殊勝、毎年の旧7月
10日の馬の祭りは此の地方第一のにぎわいを呈した。
 本堂正面の山門(勅使門)は昭和7年4月の火災に類焼を免れたもので、
この地方として希にみる貴重な建造物である。

昭和59年度設置。平成2年度修復。令和3年更新。

▽遍照寺の山門


▽長井文化財保護協会と長井市教育委員会による立て看板もあります


 宮遺跡は、昭和26年に発見された遺跡で、同31年と62年に発掘調査が
行われました。その結果縄文中期の初頭から中葉(大木7b式〜8b式期)
にかけて栄えたむらの跡がでてきました。(大凡4700〜4800年前)
 住居跡が10棟、復元できた土器が20、それに玦状耳飾(けつじょうみみ
かざり)や耳栓(みみせん)なども出土し、当時の中心的なむらであった
ことがうかがわれます。
 遺跡は野川の河岸段丘上に立地し、居を営むのによく、食料も豊富に
得られたところと思われます。

昭和63年度設置。

 丸大扇屋は寛永年間(1635)に椿より十日町に進出し、蓑(みの)・
草鞋(わらじ)・縄・五穀等の生活必需品の販売をはじめ、元禄7年の
最上川上流舟運の開通で宮舟場ができると、京・大阪を拡げ、村山・
北条から撰苧(よりそ)を集荷して越後小千谷に売って業績をのばし、
安永元年には三町五反の地主にもなった。文化の頃から絹糸・真綿の
仲買いも行い、7代目忠兵衛政成は宮村肝煎を努めた。一方宮鎮守の
祭りの屋台を飾る人形や衣装・小道具の貸出しもしている。京大阪と
取引をした遺産として仏壇・雲州灯籠が現存する。
 明治になると長井紬の生産を始め、28年の商品仕入量は反物1959反、
既製品1155点、足袋・糸・小間物を多量に京阪・東京より仕入れて
販売している。
 道路に面し、格子の美しい店。小間屋門・店蔵と並び、何れも嘉永
元年の建造物で、長井の店屋造りの典型的な形を残している。又味噌
蔵(天保3年)主屋(明治23年)蔵座敷(明治31年)新座敷(大正2年)と
同一敷地内に各時代の建物が並んでいるのも興味深い。

平成7年度設置。平成14年度一部内容の変更。



文教の杜ながい

 伝承によると、康平(1058)の頃、安倍貞任の娘 卯の花姫が宮村に
館をつくり、源義家と戦ったので「卯の花の館(やかた)」と呼ばれて
いる。伊達の時代になり、植宗・晴宗親子が争った天文の乱(1542)が
おこった時、宮村館は片倉伊賀守の居館で、伊賀守は智勇兼備の名将で
晴宗党として片倉一族や野川以南の村地頭を率い、強敵 鮎貝・大立目・
最上の連合軍を野川から蚕桑境まで押し返し、晴宗の置賜制覇の糸口を
つくった。戦後の論功行賞で片倉家総領の意休斉景親が宮館主となり、
伊達氏の岩出山移封まで続いた。天正15年の鮎貝討伐戦の時も伊達政宗
は宮村館を根拠地としており、北への備えの要地であった。
 一説には片倉小十郎景綱の居城であったという説もある。宮村館は
館の内一町歩ほどの濠と土塁をめぐらした方形の館で、蒲生氏の時に
廃された。小桜城の名は後世の命名である。

昭和63年度設置。平成23年度板のみ修繕。

 青苧(あおそ)はイラクサ科の多年草で、茎から皮をはぎ取り蒸して
晒して繊維にする。上杉藩では江戸時代始めから生産され、「からむし」
とも呼ばれて重要な生産物であった。
 これらの青苧繊維は秋に収穫して麻糸にし束ねて一時青苧蔵に収められ、
奈良や小千谷に輸出され晒し(さらし)や縮(ちぢみ)の原料となった。
 青苧繊維を収める宮の青苧蔵御門は寛文3年(1663年)に建てられた。
青苧御蔵の正門が青苧蔵御門で、屋根は昔木羽葺で、厚さが17cmもあり、
重厚な感じのするもんで長井では中世に作られた数少ない門の1つである。

平成2年度設置。平成28年度修復。



 宮市の始まりは、總宮神社の祭りであった旧暦の9月18・19・20日から
約1か月開かれた明神市であろう。それは大永年間(1521)のころだった。
産業が発達し分業が進んだ万治元年(1658)に、新町を開いた井上小左衛門
が、小出市から3日分の市場開設の権利を分けてもらって、月に3日、新町・
十日町・河原町で宮市を定期的に開くようになった。
 文久2年(1862)に十日町の長沼惣右衛門が世話役になって宮市の繁盛を
願い、市神を今の安部印房店前に立てた。明治になって道路を拡張するとき
現在の白山神社に移された。

平成元年度設置。平成27年度修復。