長井市中央地区公民館

 大宮大明神は小国の大宮神社の神様で、死産や乳幼児の死亡率の高かった
江戸時代(1603〜1868)に、安産の神・乳幼児の無事成長を守ってくれる神
として厚く信仰された。
 当時、小国は僻遠の地で、直接参詣することは困難だったので、講を作り
代表者に代参してもらってお札を受け、4月吉日に講中の女が集まって安産祈
願・お札の配布、餅、赤飯等を食べての会食歓談をした。
 この碑の裏に「辰女」と母の記銘があるので、難産をきりぬけ、母子ともに
無事だったことを感謝して建立されたものだろう。女の建立した碑は当時と
しては珍しい。

平成4年度設置設置。令和2年度修復。(遍照寺境内)



随筆「牛のよだれ」の著者(長井市指定文化財)

 長沼牛翁は宝暦11年宮村の豪商長沼惣右衛門の長男に生まれた。幼名を
源太郎という。
少年の時から医学に心を傾け、壮年の頃家業を弟に譲り江戸に出て医学の
外諸般の学を修め西国を歴遊して特に音楽の道を極めた。
異境にあること29年。文化6年故郷に帰り撞木橋のほとりに居を構え医業に
励み、その住居を丁橋庵(ていきょうあん)と名づけて多くの文人と交わ
った。天保5年丁橋庵で没した。74歳。
 牛翁は諸国遍歴中から絶えず見聞した所を随筆に認め、帰国後も書き続
けたので、その量は莫大なものだったというが、随筆の題名を「牛のよだ
れ」と名付けたのである。現存するのは本編60巻(うち4巻欠)続編10巻
(うち2巻欠)。牛翁は比類ない随筆家としてその名は永久に伝わることで
あろう。

昭和59年度設置設置。平成18年度修復。(遍照寺境内)



 遍照寺の境内にあるこの宝篋印塔は時代も古くないので細身ですらっ
とした美しい形をそなえている。真中の石板の四隅にある隅飾りも外側
にそっていて美しい。
遍照寺24世の住職鏡周が寺の本堂や庫裡の柱根が朽ち、屋根も大破した
ので、大修理を発願し、藩に願って、材木の伐採の許可や普請費用の割
り当てを許してもらい、苦労の末立派な建物に改造した。その功績をた
たえ弟子の浄智たちが追善供養のため延享2年(1745)に建てたもので
ある。

平成4年度設置。(遍照寺境内)



 この墓石は、碑文はかなりわかりにくくなっているが、寺嶋和泉守
正貞のものである。慶長6年(1601)8月20日に直江兼続は寺島和泉を
上長井郷の代官、須田善右衛門を下長井郷の代官に任命したが、事情が
あって後で支配地が変わり、寺嶋和泉が下長井の代官になった。代官は
支配地の年貢の徴収や民生全般の許認可・指導にあたったので、非常に
大きな権力を握っており、江戸中期まで世襲であった。
 正貞の父六蔵長資は上杉謙信の武将として織田信長の上杉攻撃の時、
魚津城を守って奮戦して討死した武勇の人であり、その後第5代代官
信政は明暦3年(1657)の遍照寺殿堂の葺替の時、様々な特典を与えて
援助したので、子孫は代々檀頭総代職に任命されている。

平成元年度設置。平成19年度支柱交換。令和2年修復。(遍照寺境内)

 供養のために石材を板状にはいで作った塔婆(とば)を板碑(いたび)と
呼んでいる。年号が入っていて市内で二番目に古いことがわかるのがこの
遍照寺の板碑である。材質は凝灰岩なので、かなり太目であるが、山は山型
で二段の切り込みがあり、額が出ていて模式的な形をしている。
 この板碑は、遍照寺10世権大僧都法印大阿闍梨日瑜(だいあじゃりにちゆ)
の歿した寛永17年2月9日(1630)に、その菩提を弔うために建てられたもの
である。遍照寺が伊達氏、蒲生氏と相続く国替えの騒ぎのため、血脈・法流を
紛失したのを、日瑜が他国の縁故寺を尋ねて、中院流の法流を開壇し、道場
の形を整えるきっかけを作った功労者である。

平成元年度設置。平成15年度一部内容変更。(遍照寺境内)



 昭和56年(1981)5月建碑除幕。
 
 春となる風騒げど 雪たかき
 山をそがひに 虹あらはれぬ

 明治30年(1897)4月長井市五十川に生まれる。大正9年(1920)に
「アララギ」に入会し、大正11年に結城哀草果のすすめで島木赤彦に、
後に斉藤茂吉に師事して作歌の指導を受ける。
 昭和20年(1945)に故郷五十川に疎開してそのまま定住。故郷の自然
や波乱にみちた生活を力強く詠みあげた歌集「草餐」「残虹」「野川」を
発刊し、斉藤茂吉文化賞を受賞する。

平成5年度設置 平成19年10月に宮原から白つつじ公園内へ移設。
令和2年修復。