長井市中央地区公民館

 伝承によると、康平(1058)の頃、安倍貞任の娘 卯の花姫が宮村に
館をつくり、源義家と戦ったので「卯の花の館(やかた)」と呼ばれて
いる。伊達の時代になり、植宗・晴宗親子が争った天文の乱(1542)が
おこった時、宮村館は片倉伊賀守の居館で、伊賀守は智勇兼備の名将で
晴宗党として片倉一族や野川以南の村地頭を率い、強敵 鮎貝・大立目・
最上の連合軍を野川から蚕桑境まで押し返し、晴宗の置賜制覇の糸口を
つくった。戦後の論功行賞で片倉家総領の意休斉景親が宮館主となり、
伊達氏の岩出山移封まで続いた。天正15年の鮎貝討伐戦の時も伊達政宗
は宮村館を根拠地としており、北への備えの要地であった。
 一説には片倉小十郎景綱の居城であったという説もある。宮村館は
館の内一町歩ほどの濠と土塁をめぐらした方形の館で、蒲生氏の時に
廃された。小桜城の名は後世の命名である。

昭和63年度設置。平成23年度板のみ修繕。



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