長井市中央地区公民館

史跡案内板
 恵日山常楽院は始め御影堂(みえいどう)と呼ばれ、遍照寺中興開山
宥日上人が隠居(閑居)されたところであった。上人はこの寺で時を過
ごされるうち、77才の正月13日(文政4年)その行方がわからなくなった。
その時この井戸の端に履物が脱ぎそろえられてあったため、さてわと井
戸替えをしてみたが、出てきたものは古い石塔一つだけだったので、こ
の石塔を井戸のほとりに建て置き上人の形見としてあがめまつった。の
ちに御影堂を建立してその仏壇に安置したと伝えられている。
 上人は不思議な霊力を具え、ことに火伏せの霊力が著しかったとされ
るため、ご命日には近郷近在からこの井戸の水を汲みに来る者群をなし
たといい、今もなおお水取りに来る人が跡を絶たないという。

昭和59年度設置。平成17年度修復。



 当山は高僧宥日上人が晩年閑居の地として文明元年(1469)開山、
不動明王の像を刻して本尊とされた上人の遺跡であり、特に火難消除
の祈祷所として知られ、春の大般若の日に上人ゆかりの井戸水を汲ん
で屋根にかけると火難を免れると伝えられ、今も信者でにぎわう。
 大正6年長井町大火の際 不運にも類焼し、同10年再建された宥日堂
を本堂として現在に至っている。
 寺宝に本尊不動明王・宥日上人御真筆・十六善神軸・文殊ボサツ像
等があり、特に文殊様のお祭はアカザ祭りとしても古来格別のにぎわ
いである。

昭和61年度設置。平成15年度修復。



 前面の畑はむかし米沢藩上米蔵の置かれた所である。上米蔵とは藩の
年貢米を収納する蔵のこと。
 元禄7年(1694)、京都の豪商 西村久左エ門の力で、白鷹町黒滝から
下流の岩盤が開削され置賜・村山間の航路が始めて開かれた。はじめ
西村が航行権を持って藩の米を酒田・日本海回りの船で江戸へ送って
いたがのちに藩の直営事業となって幕末まで続いた。
 通船工事完了後、米蔵を建てるためこの場所約4200平方米を無税地と
した。幕末の絵図によると、蔵は三棟で第2・第3棟の間に竹梁場1棟が
あり、取次ぎ廊下でつながっていた。ほかにお蔵守の住宅・馬屋・小屋
が付属していた。
 明治7年 民間に払い下げられ、やがて解体されてしまった。この場所
はまた御陣屋とも呼ばれていたものであった。

昭和57年度設置。平成2年度、平成11年度修復。(長井橋左岸のたもと)

 ここの石碑群のうち中央の小さい碑は「永井橋始テ渡塔」で明治15年
12月8日最上川上流(松川)にはじめて橋がかかり、その渡り初めに高齢者
として選ばれた寺嶋治兵衛(80歳)が記念に建てた珍しいものである。
 この碑の左右の碑は船乗りが航行安全のため信仰する船玉大明神の碑で
左は文政6年3月(1823年)、右は嘉永6年3月(1853年)のもので、最上川舟運
の歴史を語る貴重な遺産であり、また県内に現存するものとしても稀な碑
である。
 右側の碑は上杉藩お抱え船頭たちが、頭取高梨運蔵(市内小出の人)のた
めに慶応2年(1866年)に建てたものである。

昭和57年度設置。平成26年度修復。



 諏訪堰の名は、正式には「浅立広野用水堰」と呼ばれ、慶長10年(1605)に
浅立の沼沢伊勢・広野の新野和泉によって開削されたものである。最上川から
の取水口は、舟渡八幡の上に設けられ、森・東五十川・浅立・広野まで延約13
キロメートルに及ぶ用水路を完成し、森・東五十川で約1400石、浅立・広野で
約2500石の開田が行われ最上川東岸の地域開発に偉大な貢献をした。
 土木技術の進んでいない時代に、一命を賭して郷土の開発にあたった両人の
功績は偉大である。

昭和63年度設置。平成14年度修復。



▽現在の諏訪堰取水口


 最上川の対岸、金井川側の東山の福一満虚空蔵堂へ登る参道の両脇に
石仏の三十三観音が祀られている。この三十三観音は、もと金井神の
観音山にあったのを移したという説と、文政8年(1825)8月小出の豪商
竹田清五郎が現在地に造粒したという説がある。
その彫りは深く、姿態のバランス、表情も美しく、江戸時代後期の石仏
としては稀にみる秀作だった。
 戦前までは20数体の観音・不動・地蔵の石仏があったが、近年は入口
部分に6体ほど残っているにすぎなかった。平成元年7月に、東町公民館
運営委員・役員によって参道周辺を探し求め29体を再び参道に安置した
ものである。

平成元年度設置。