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あやめ公園の成り立ち 4

  • あやめ公園の成り立ち 4

昭和5年に山形県一名所に「あやめ公園」が選出され、以来飛躍的に来園者が多くなっていった・・・・。その歴史をたどってみよう

 

昭和10年に整備 上部に「山形縣長井のあやめ 大瀑布」とある

 

昭和10年の長井駅前に設置された歓迎ゲート

 

勢いのついた長井町は、公園内に築山と滝を造成する。それが昭和10年だが、現あやめ会館の東側にあるのがそれだ。同年には、地元の歌を発表する。「恋のぼんぼり」と「あやめ踊り」だが、つつじ公園にあった演芸館で「東海林太郎アトラクション」興行も行う。東海林太郎は、当時抜群の人気を誇っていた歌手だ。昭和12年、「あやめ公園開園記念碑」が建立される。昭和10年に建立すべく活動し昭和12年7月11日、長井川柳社主催「あやめ川柳大会」で除幕式が執り行われた。この記念碑には、当時全国に名を知られた大家の句が句が刻まれている。井上剣花坊「人去りて地に紫の詩が残る」。近藤飴ン坊「魂はゆかりの色もよみかへり」。大谷五花村「名園の花を生かして絵雪洞。それぞれ揮毫がそのまま刻まれている。昭和13年、整備費用200円をかけて水泳場をつくる。しかし、第二次世界大戦に入り、昭和17年には園内を町民に貸し付け芋畑となってしまう。昭和18年、料理屋や貸座敷の転業廃業が相次ぎ、あやめ会館の建物も売却された。

 

長井駅前菊水館前の「東海林太郎アトラクション」宣伝風景

 

 

昭和12年あやめ公園開園記念碑の除幕式 右から3番目に大谷五花村

 

そして終戦、あやめ公園の復活に町民が燃える。芋畑となった公園を蘇らせようと、長井町内、近隣に協力を呼びかけ花菖蒲を寄付してもらった。明治神宮の花菖蒲も譲り受けた。昭和23年、多くの人々の努力と熱意で復活したあやめ公園、華々しく「復興祭」を行った。それを記念して、現公園北駐車場の野川堤防に桜を植えた。いま、見事な花を咲かせている。昭和27年、あやめ育成家が集まる「あやめ鉢作り愛好会」が結成されるが、この団体がその後のあやめ園の歴史を変えることになるのだ。あやめ公園の宣伝では、昭和28年に初めて県外にキャラバンを実施。宣伝カーに踊り子の乗せ、福島・仙台・郡山におもむき、長井踊りで宣伝する。昭和29年、11年ぶりにあやめ会館を行政で建設。同年、一町五カ村が合併し長井市が誕生した。

 

昭和23年開催 あやめ復興祭  三清楼前の看板 現きらやか銀行付近

 

あやめ公園復興を記念して植樹された 昭和23年

 

行政で建設したあやめ会館 初代のあやめ会館より小さい

 

あやめ会館広間 いろんな見世物が催されたのだろう

 

2015.06.22:n-old:[あやめ]

あやめ公園の成り立ち 3

  • あやめ公園の成り立ち 3

あやめ公園は、昭和に入ってから飛躍的に観光客が多くなっていく。それは・・・・。その歴史をたどってみよう。

 

あやめ公園の拡大に合わせ、昭和5年、山形新聞社主催「山形県一 十秀決選リレー投票」があり、果敢に長井町が挑んだ。それは、県内の観光地の県一を決めるもの。町あげての活動によって、見事「山形県一名所」となった。その記念碑は現在公園の中央部にあるが、このことが契機となって、多くのお客さんであふれることになる。また、中央にある噴水は、県一になった記念に整備されたもの。国鉄側も大々的に宣伝に乗り出す。その1枚が、今回観光協会で復元したあやめのポスターだ。長井駅に臨時列車が到着すると当時の佐藤鶴吉町長は、羽織袴で出迎え、歓迎の花火を打ち上げたという。掛け小屋も増え、最盛期には45もの見世物がかかった。

しかし、受け入れが不十分で、見世物と茶店はあるが本格的な会館はなかった。昭和8年高台南に、民間の北斗会が「あやめ会館」を建設。合わせて、高台西にはグリーン支店が出来、にぎわった。飛躍的な時期でもある。

 

現在のあやめ公園北口付近からの撮影 右中ほどに名所県一碑が写る

 

名所県一を記念して整備された中央噴水 中央に記念碑 

 

大正8年に建設されたあやめ会館 名称は公募で決まった

 

あやめ会館の北面

 

 

あやめ会館一階の平面図

 

 

グリーン支店 高台西にあった

 

 

山形運輸事務所で制作したポスター

 

 

2015.06.18:n-old:[あやめ]

あやめ公園の成り立ち 2

  • あやめ公園の成り立ち 2

長井のあやめ公園は明治43年の創始。あやめまつりが始まり、園内の花菖蒲も中咲きの品種も咲き始めた。引き続き、あやめ公園の成り立ちをたどってみよう。

 

 

徐々に公園を拡大していった大正7年7月、園内にボンボリを点灯させた。数は数十灯だった。今にしてみればそう多くはないが、当時としては画期的であった。これは、長井町に電気部があり、電気事業がうまくいっていたし電力の供給も容易であったためだ。電気事業は、大正3年に、長井駅開業と同時に導入した事業。外部から電気を買い入れ、配電していたのだ。以来、夜のあやめ公園として好評だったため、逐次ボンボリを増やしていった。これを機に、料理屋や市外の飲食店も進出し始めた。大正8年には公園に吉野桜が植えられ、公園の発展も日増しに活発化していった。

 

ボンボリとイルミネーション 大正7年以降 夜景が新たな風景を生み出した

 

長井線が荒砥まで開通 こんな風景があった

 

大正12年には長井線が長井・荒砥間が開通、つまり赤湯から荒砥まで全線開通した。その前の大正11年、隣接する果樹園を戻して公園を拡大。そして昼のあやめと夜の夜景が県下に宣伝されるようになった。大正13年には公園を拡大して工事費200円で水泳場をつくる。

徐々に多くの店小屋がかかる。昭和初年ころに公園にかかった掛小屋はサーカス、オートバイの絶壁乗り、学者犬、犬猿の曲芸、生きた蛇をくう美少女、一寸法師、地獄極楽、移動小動物園、化物屋敷などなど。まがまがしいものまで見世物がならび、市内はもとより近隣からも訪れるようになり、ますます賑わいをみせるようになった。

大正期のあやめ公園

 

2015.06.17:n-old:[あやめ]

あやめ公園の成り立ち

  • あやめ公園の成り立ち

長井のあやめ公園は明治43年の創始。今は極早生の花菖蒲が咲き始めている。なぜに花菖蒲なのにあやめ公園なのか、よく耳にする質問である。その歴史をたどってみよう。

 

 

あやめ公園と名付けたのは

 あやめ公園は、明治43年に金田勝見が現公園高台下に花菖蒲を植え、茶店を構えたことに始まる。元々ここは、野川の氾濫原で宮区の採草地であり杉林もあったところだ。宮区の財源を補うために杉がだんだん切り倒されていく。高台は明治40年に「宮公園」として宮区で公園化をはじめたもの。明治45年、杉林十町歩(3万坪)余りを伐採したことを契機に公園化を図っていった。

大正3年5月、宮区で管理していた宮公園が長井町も関与するようになった。そこで名付けられたのが「あやめ公園」だ。大正3年というと、軽便鉄道が赤湯・長井間が開通して長井駅が開設する年。加えて電灯が初めて灯った記念すべき年である。

花菖蒲を植えているのに「あやめ公園」

多くの方にこの質問を受ける。大正3年に名付けられたことはわかっているが、その経緯は残念ながらわからない。しかし、花菖蒲のことは昔は「花あやめ」といっっていたし、「あやめ」を漢字で書くと「菖蒲」だったり、全国でも公園名に平仮名で「あやめ」を使用しているところが結構ある。総称として平仮名の「あやめ」を使う習慣があった。

 

 

 

 

 

2015.06.15:n-old:[あやめ]

2015 フィルム講座 大正3年と昭和9年  19

  • 2015 フィルム講座 大正3年と昭和9年  19

平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。

長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。

 

     製糸場の大正3年対昭和9年

 

    大正3年の地図

 

羽陽館川村製糸場は現在の長井アパレル(元郡是製糸)にあったが、写真はない。川村利兵衛が明治7年に製糸場を建設、以降拡大し、明治20年には羽陽館川村製糸場を設立した。女工75名男工12名の規模。「羽前エキストラ」としての名声を得た。明治38年に川村が病死、長沼惣右衛門が受け継ぎ「長井製糸場」と改称した。以降、片倉製糸に工場を貸したが、明治42年には再び長沼氏自ら、経営に乗り出した。しかし、糸価が低落し大正初年に、漆山の多勢亀五郎に経営を委任する。それも2年でやむなく手を引いた。その後2年ほど休業するが、大正3年当時がちょうど休業期間だ。その後、横浜の生糸問屋渡辺文七の所有となり、続いて信州富国館製糸の両角慶一の手に移り「羽陽館両角製糸場」と改称して大正9年の郡是につながっていくのである。

 

 

大正3年発行の町勢要覧に掲載された「三由軒製糸場」の写真。

三由軒製糸場は、明治20年、つつじ公園開発などに寄与した横山孫助氏が開業、明治28年、四ツ谷に工場を新設した。仏式製糸機械48釜を設備、32年には製糸講習所を設置するなど意欲的だった。43年にはボイラーを設置し70釜の大工場となった。

 

         昭和9年の地図

 

昭和9年の町勢要覧に掲載された郡是長井工場の写真。同じ写真考えられるものが下記に。

 

 

郡是製糸長井工場は大正9年1月に羽陽館両角製糸場を買収し2月1日に280釜で事業を開始した。買収時の敷地は4500坪、建坪880坪であったが、隣接地約1万坪を買い入れて設備を改築拡張した。

昭和7年には582釜、約1000名の従業員を有し、購繭数量57万貫、生糸生産高は5万貫を超えた。昭和8年には普通機180釜、多条機156台に改め昭和13年には全設備が多条機460台となった。

 

 

大正11年の町勢要覧に掲載された三由軒製糸場の写真。大正10年の生産高は、生糸4530貫目、屑物1400貫目、繭買入高春繭34000貫目、夏秋蚕14000貫目をほこった。大正11年には工場の大改築を行い活況を呈したが、昭和17年の企業整備令によって製糸業を廃業した。

 

2015.04.24:n-old:[歴史的建造物]