「直江兼続VS最上義光」〜決戦!出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦
メモ
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家康の西上を知った上杉は、最上侵攻を決断し、米沢城主直江山城守兼続を総大将とする2万とも3万とも言われる大軍をもって、怒濤のごとく最上領内に乱入した。
主力軍は狐越の道筋から畑谷・長谷堂を経て山形城へ、左翼軍は最上川沿いに下って寒河江方面へ、右翼軍は上山城攻撃に向かう。更に、上杉領だった庄内からは、最上川をさかのぼる一軍と、六十里越えの一軍が長駆最上領に侵入する。典型的な分進合攻戦略である。
軍事力においてははるかに劣る最上側は、領内各地の出城のほとんどを、放棄するしかなかった。

▲上杉軍の最上領進攻経路 (※クリックすると拡大します)
【参考】Googleマップ
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勢いに乗った上杉軍は、山形城南西7キロメートルの長谷堂攻略に向かう。
兼続は、14日に菅沢山に本陣を置く。ここを中心に西部山麓一帯は、上杉の陣地となり、一部上杉軍は谷柏方面にも布陣した。長谷堂城を包囲し、合わせて山形・上山との連絡を断つ作戦である。
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城将は最上の智将志村伊豆守光安(あきやす)。副将として、剛勇鮭延越前守秀綱が派遣された。
山形攻防の前線須川東岸には、吉原から沼木、飯塚、椹沢付近まで後詰めの軍を配し、上杉軍の渡河攻撃に備えた。
長谷堂が陥落すれば、山形は風前の灯となる。長谷堂城を死守すべく、最上方は全力を挙げて上杉軍と渡り合った。こうして実に15日間、長谷堂付近を舞台として、死闘が繰り広げられた。
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長谷堂勢200余人が、突如上杉陣に夜討ちをかけて首150を取った、攻め寄せる敵軍を近くまで引き寄せ、山上から鉄砲を乱射して大損害を与えた、などと書いた古記録もある。
9月29日には「朴の木屋敷」の戦闘で、上杉軍一方の将、新影流の達人上泉主水(もんど)泰綱を討ち取るという大戦果をあげたりもした。
もちろん、最上方にも多くの戦死者が出た。村木沢の加藤掃部(かもん)、山辺町要害の佐藤理兵衛などは、長谷堂合戦に出陣し、華々しく活躍して討死を遂げたと伝えられている。
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10月1日、兼続は全軍退却を命じる。
ここぞとばかり義光は、みずから陣頭に立って全軍を指揮し、富神山周辺は激烈な追撃戦の修羅場となった。
この戦いで義光の兜に敵弾が命中、側近の家臣が銃弾に貫かれて即死した。戦死者は、上杉方1580、最上方623と、諸記録はほぼ一致して揚げている。伊達から派遣された援軍も最上勢と協力して戦い、湯野目民部をはじめ30余人が戦死したとされる。
兼続の戦いぶりに、義光は「さすが直江、見事。謙信以来の武勇の伝統が今も残っている」と称賛を惜しまなかった。
こうして、両軍が死闘を繰り広げた長谷堂の戦いは終わりを告げる。
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(C) 山形市・最上義光歴史館
豊臣秀吉亡き後、政治の主導権をめぐって全国の大名は二派に分裂した。徳川家康を盟主とする東軍、石田三成を中核とする西軍。両陣営対立の極限における激突が「関ヶ原合戦」であった。
会津120万石の大名、五大老の一人である上杉景勝は、西軍の重鎮として反徳川の急先鋒であった。
一方、山形20余万石の最上義光は家康と強固な盟友関係にあり、上杉攻め奥羽諸大名の主将の役を担っていた。