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緊急報告―「花巻城址」残酷物語その6…平成の“落城”

  • 緊急報告―「花巻城址」残酷物語その6…平成の“落城”

 

 「この店舗建設(パチンコ店とホ-ムセンタ-)をまちづくりの活性化へ」―。歴史的にも由緒がある花巻城址(旧東公園)の“里帰り”に期待が高まる中、一方でそんな動きに背を向ける発言が議会内で目立つようになっていた。「平和」と「環境」をことさらのように強調する「平和環境社民クラブ」(社民党系)所属の議員は自らの議会報告「市政ニュ-ス」(2015年1月14日号)の中で「たとえば、パチンコ店でもまちの活性化につながり、さらに雇用の場も確保できる」とキャンペ-ンを張った。

 

 「相手方は上部平坦地(旧東公園)だけの部分売却には応じられないという態度を変えていない。かといって、跡地全体を取得するには財政面のネックがある」―。当局側は買い取り協議の期限が1週間後に迫った議員全員協議会(1月19日)で、跡地の全面取得の事実上の断念を表明した。

 

 「解体費用などに多額な費用がかかる。財政面からも市政課題には優先順位があり、具体的な計画がない段階での全面取得はやめるべきだ」…。他方、ほとんどの会派からは当局側を援護射撃する発言が相次いだ。これに対し、花巻クラブ(5人)と私は「歴史的にも由緒のある花巻城址を市民の公共財産として取得すべきではないか」と主張したが、しょせん多勢に無勢だった。「議会の意志には逆らえない」というのが当局側の言い分だった。わたしは「義援金流用」疑惑をめぐる当局側と議会側との“癒着”をふと、思い起こした。

 

 1月27日、新興製作所側と不動産業者側との間で「土地譲渡契約」が交わされ、約1か月間に及んだ攻防に幕が下ろされた。この日のうちに旧東公園部分の跡地が札幌市内に本社を持つパチンコ業者へ所有権が移転していたことが明るみに出た。典型的な“土地転がし”だった。

 

 花巻城址が最終的に“落城”の憂き目を見ることになったこの日は実は147年前、戊辰戦争の発端となった「鳥羽伏見の戦い」が始まった、ちょうどその日に当たっていることにハタと心付いた。東北一帯はこの日を境に「敗者の歴史」という悲運を書き連ねることになった。いままた目の前で、その歯車がまだ回り続けていたかのような歴史の符合に一瞬、たじろいでしまった。「花巻の文化を愛する市民の会」の秋山潔会長は激した口調で語った。「受難続きだった花巻城址にとって、今回の売却計画こそが究極の破壊につながる」

 

 

 

(写真は桜の名所として知られた旧東公園。芸妓さんたちを交えた花見の宴は欠かせない風物詩だった=『ふるさとの想い出 写真集(明治・大正・昭和)花巻』(図書刊行会)より。撮影年次不明)

 

 

 

緊急報告―「花巻城址」残酷物語その5…市民総決起集会

  • 緊急報告―「花巻城址」残酷物語その5…市民総決起集会

 

 鶴陰碑はいま、花巻市博物館の一角に移転・展示されている。ボタンを操作すると、人名が拡大されて映し出される液晶画面が用意されており、先祖をしのぶ関係者や歴史愛好家の来訪が絶えない。上田東一市長の遠い血筋に当たる人物として「上田弥四郎」(1768―1840年)という名前が刻まれている。説明文には「花巻城の大改修工事(文化6年)の際に指揮を取り、『造作文士』とも呼ばれた。儒者としても知られる」と記されている。

 

 ちなみに碑文の揮毫(きごう)の主は小原東籬(忠次郎)(1852―1903年)。わたしの曽祖父に当たる人物である。明治時代の筆札(ひっさつ=教師)のかたわら、書家の大家としても活躍し、五十三歳で没するまでこの地方の小学校で教師生活を続けた。その一方で公共事業にも足跡を残し、花巻市立図書館の前身である「豊水社」を創設したほか、花巻リンゴ会社、花き栽培奨励のための花巻農政社なども立ち上げた。

 

 「この碑にはわたしの先祖の名前も刻まれている。城に対する思いは誰にも負けない」―。跡地の売却問題が表面化した際、上田市長は苦渋の表情をあらわにした。先祖が改修を手がけた城址の存亡に向き合わされるという歴史の皮肉…。わたしは縁(えにし)の不思議に胸をつかれた。その決断の時は時々刻々と近づいていた。

 

 跡地の先買い期限が二週間後に迫った1月12日、「新興跡地を市民の手に!!あきらめるのはまだ早い」市民総決起大会が市内の会場で開かれた。地元住民の呼びかけに200人を超える市民が詰めかけた。参加者の中に『新花巻駅物語り』の筆者、渡辺勤さんの姿もあった。噛んで含めるようにこう語りかけた。「歴史を生きるということは未来のために何か大切なものを残すということ。あの時は子どもたちも貯金箱を持って募金に協力してくれた。目の前の新興跡地問題がまさにそれなんです」

 

 「1%の可能性に賭けた住民総ぐるみの誘致運動の光景がまだ瞼に焼き付いています」―。市民総決起大会の決議文には一揆の頭領―小原甚之助の思いが込められていた。参加者の間から雄叫びが上がった。「そうだ。今度こそ『団子より花』。善意の浄財を募ってあの時の運動を再現しようではないか」

 

 こうした市民の熱気に冷や水を浴びせたのはまたしても「さっさと帰れ」発言のもみ消しに躍起となった議員集団だった。(「新興跡地」の現状については、12月8日付当ブログ「猛毒『PCB』が所在不明に!?」を参照)

 

 

 

(写真は200人以上の市民が詰めかけ、熱気に包まれた総決起集会=2015年1月12日、花巻市の「まなび学園」で)

 

 

 

《注》~「さっさと帰れ」発言

 

 東日本大震災の際、議会傍聴に詰めかけた内陸避難者に対し、革新系議員が浴びせた暴言。私が義援金をめぐる“疑惑”を追及した際に発せられた発言だったが、結局、この発言は「なかった」ことにされ、逆に「議会の品位を汚した」と理由で私自身に懲戒処分が科せられた。

 

 

忙中閑―雪っ子たちとの対話

  • 忙中閑―雪っ子たちとの対話

 

 自室から降り積む雪をぼんやりと眺めていたら、生まれたばかりの“雪っ子”たちが木登りをして遊んでいるように見えた。素っ裸なのがいい。「堅雪(かたゆき)かんこ、しみ雪しんこ…」(宮沢賢治『雪渡り』)―。賢治もこんな光景を目にしたのだろうか。昨日、遠野出身の芥川賞作家、若竹千佐子さん原作の映画「おらおらでひとりいぐも」(沖田修一監督・脚本)を見てきた。人類の誕生にまでさかのぼる壮大な記憶の物語。コロナパンデミックの中、私たちはそのことを考えるべき時代を生かされているのかもしれない。映画については、いずれまた…。

 

 

 

 

(写真は人類の原初を思わせる雪っ子たちのストリップショー=12月15日午前11時すぎ。花巻市石鳥谷町の仕事部屋の自室から)

 

 

 

《追記》~図書館特別委が解散へ

 

 

 雪っ子たちのしなやかな演技に見惚れているうちに、今日17日が花巻市議会12月定例会の最終日だったことを失念してしまっていた。「住宅付き」図書館という市当局の構想に異議を申し立てる形で設置された議会側の「新花巻図書館整備特別委員会」(伊藤盛幸委員長)はこの日、①建設場所は市構想にある花巻駅前か、「まなび学園」周辺にする、②用地は市有地に限定する、③カフェや飲食スペースなどの機能を整備する―という3項目の提言を示し、委員会活動に幕を下ろした。議会独自の「理想の図書館像」を期待した方がバカだったというわけである。約10ケ月に及んだ”茶番劇”のエンドロールには議長を除く委員25人全員の名前が延々と映し出されていた。

緊急報告―「花巻城址」残酷物語その4…「おらが駅舎」物語

  • 緊急報告―「花巻城址」残酷物語その4…「おらが駅舎」物語

 

 「あきらめるのはまだ早い。駄目か駄目じゃないか、やって見なければ分らない。花巻百年の大計のために、我われの子孫のためにもう一度やろうじゃないか」(渡辺勤著『新花巻駅物語り』―。昭和60年3月、念願の東北新幹線「新花巻駅」が全国初の全額地元負担の「請願駅」として開業した。現代版「百姓一揆」とも呼ばれた、その苦闘の足跡を辿った元開業医の渡辺さん(90歳=当時)の著書には「甚之助と万之助」という副題がついている。甚之助とは一揆の頭領―「東北新幹線問題対策市民会議」の議長を務めた小原甚之助、万之助とは開業時の市長、藤田万之助(いずれも故人)のことである。

 

 「花巻への停車ならず」―。昭和46年10月、新駅実現が夢と果てた瞬間、市民の間には落胆と怒りが爆発した。2人を先頭にした「官民」一体の誘致運動が巻き起こった。「まるで山賊か虎が住んでいるから、恐ろしくて花巻は通れないと、そんな仕打ちを国鉄にされたんじゃないのか」、「現代の政治というものは1人の英雄に頼るものではない。点と線の政治から面の政治、大衆動員の政治となっているのであります」…。「甚之助語録」の中には血気盛んな言葉がずらりと並んでいる。

 

 ある日、国鉄理事のネクタイをつかみ、語気鋭く迫る甚之助の姿があった。「俺たちの隣町の横川(省三)を知らないか。日露戦争の時、シベリア鉄道を爆破した男だ。あなたがそう云うなら、我われにも考えがある」、「何したど、もう一度云って見ろ。岩手135万県民を馬鹿にする気か」

 

 前述した横川省三は日露戦争の開戦時、密偵として旧満州に潜入。鉄道爆破を図ろうとしたが、ロシア軍に捕えられ、ハルビン郊外で銃殺刑に処せられた。鉄道の名前は正しくは東清鉄道で、爆破は未遂に終わったのだったが、その誤りはご愛嬌としても当時の熱気が伝わってくるエピソ-ドである。この迫力満点の“演技”に居並ぶ国鉄の役員連中もたじたじとなった。余談だが、日露戦争の激戦地、旅順攻略をめぐる攻防を描いた映画「二百三高地」(舛田利雄監督、1980年)はラマ僧に身を隠した2人の日本人が銃殺刑に処せられるシ-ンから始まる。その1人が横川である。

 

 総工費約42億円。県が三分の一を負担することになり、残りの約12億円は市民や団体から寄せられた寄付金だった。大将、参謀、行動隊長、主計、先鋒…。国鉄本社に乗り込む面々の何とも時代がかった肩書もまた甚之助流だった。“喧嘩陳情”と呼ばれたこの時の大将はもちろんこの人である。目抜き通りの市民会議事務所には壁一面にこんな檄文(げきぶん)が貼ってあった。

 

 「政治が曲げた路線なら/民意で正すが民主主義/我ら花巻市民団/今ぞ赤穂の義士のごと/まなじり決して起ちました」

 

 

 

 

(写真は「新花巻駅」の設置に至る経緯を記した石碑。時代がかった巻物風の形もなんともユ-モラスである=10月末、花巻市矢沢で

 

 

 

《追記》~隔世の感…「おらがまちの幸せ」はおらがトップの“気概”の持ち次第

 

 「所有者と解体業者との訴訟が生じるなど複雑な状況の中、がれきが放置された状態は腹立たしを感じる」とまるで“あさって”の答弁をした上田東一・現花巻市長は「市民の大切なお金であり、跡地を取得するのは困難」と続けた。12月8日付当ブログ「『花巻城址』残酷物語…猛毒PCBが所在不明に!?」に関連し、地元紙「岩手日日」(9日付)は上田市長のこんな言葉を伝えていた。わずか35年前に君臨した「おらがトップ」の赤穂浪士の“気概”とはまさに雲泥の差である。

 

緊急報告(号外編)―「花巻城址」残酷物語…猛毒「PCB」が所在不明に!?

  • 緊急報告(号外編)―「花巻城址」残酷物語…猛毒「PCB」が所在不明に!?

 

 「猛毒のPCBが1年間も市街地に“不法”に放置されていた」―。こんなショッキングな事実が明るみに出た。花巻市議会12月定例会の一般質問(8日)で、本舘憲一議員(花巻クラブ)の質問に対し、上田東一市長がその事実を認めた。コロナ禍の脅威にさらされる中での今回の「PCB」騒動に市民の不安はさらに、高まっている。この件について、当局側は議会初日の今月4日に開催した議員説明会で「県とともに情報共有と状況把握に努めている」と話したが、“不法”放置の実態については言及しなかった。1年間にもわたって、この事実を公表してこなかったことについての「行政責任」も問われることになりそうだ。

 

 PCB(ポリ塩化ビフェニル)は電気絶縁性が強いため、変圧器やコンデンサなどに広く使用されてきたが、発がん性や皮ふ・内臓障害、ホルモン異常を引き起こすなどの毒性が強いのも特徴。1968(昭和43)年、米ぬか油の中に脱臭工程の熱媒体であるPCBなどが混入。いわゆる「カネミ油症」事件と呼ばれる集団中毒が発生し、患者数は約1万3千人にものぼった。このため、昭和47年には生産と使用中止などの行政指導を経て、昭和50年からは製造と輸入が原則、禁止とされた。当市における「PCB」問題の発生は実は6年前にさかのぼる。

 

 2014年12月、当市の中心部に位置する旧新興製作所跡地(城内・御田屋町)が「公有地の拡大の推進に関する法律」(公拡法)に基づいて、売却される計画が浮上した。同法は「公共用地」の確保を促すため、地元自治体への優先取得を定めている。当時の売買価格は100万円だったが、上田市長は当時、「社屋などの解体に多額の費用を要するうえ、利活用が不透明な物件に市民の税金を投入するわけにはいかない。むしろ、第三者が建物を解体し、有毒物質のアスベストを除去してもらえるなら、結果としてはその方が良い」として、取得を断念。翌年の1月、当該地は結局、宮城県内の不動産業者「(株)メノア-ス」の手に渡った。解体業者との金銭トラブルによる裁判沙汰や解体工事の突然の中断、相次ぐ強制競売…。以来、現在にまで続く“悪夢”のような「『花巻城址』残酷物語」はこの時に始まったと言ってよい。

 

 テレプリンタ-(印刷電信機)などの生産で海外にまで販路を広げた(株)新興製作所では往時、高濃度のPCBを触媒に使ったトランスやコンデンサなど28台が稼働していた。工場閉鎖に伴って、真っ先に問題になったのはこの種の有害物質の処理である。PCBやアスベストなど人体への影響が懸念される物質については「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」(廃棄物処理法)や「ポリ塩化ビフェニル廃棄物の適正な処理の推進に関する特別措置法」(PCB特措法)などによって、その保管や処理については厳しい規定がある

 

 たとえば、保管基準として、①保管場所周辺に囲いを設置すること、②見やすい個所に廃棄物の種類、管理者の氏名や連絡先などを記載した掲示板を設置すること、③飛散、流出、地下浸透、悪臭発散を防止するために必要な措置を講ずること、④ネズミの生息、蚊やハエなど害虫の発生を防止すること―などが細かく定められている。このほか少し古いデ-タになるが、環境省の資料(平成23年9月時点)によると、都道府県・政令市からの報告で平成20年度以降、PCBなど廃棄物に係わる漏洩(ちろう)や紛失、不適正処理、不法投棄などが合計358件発生したことが分かっている。このため、適正な保管をするために保管事業者に対し、行政側が立入検査することなどを義務づけている。

 

 当該地を取得した不動産業者が隣接する空店補(喫茶店跡)にPCB廃棄物を保管したのは2016年秋のこと。当時は建物の内部に「特別管理産業廃棄物・PCB廃棄保管場所」と書かれた貼り紙が張られ、「関係者以外立入禁止」の文字も見えた。今月4日開催の議員説明会で、当局側はその処分期限が「令和4年3月末」(最大延長期限は令和5年3月末)になっていることを明らかにしたが、その一方で周辺住民の間では今年になってから、内部が“もぬけの殻”になっているという噂が広がっていた。県南広域振興局花巻保健福祉環境センタ-(中部保健所)にその事情をただすと、驚くべき答えが返ってきた。

 

 「1年ほど前の昨年12月ごろ、土地所有者(メノアース)から突然口頭での連絡があり、保管場所の立ち退きを求められたので、別の場所に移したとのことだった。大体の移管場所は推定できるが、まだ現認するまでには至っていない。早急に現地を確認したいが、当事者の体調不良やその後のコロナ禍の影響で今後の見通しは立っていない」―。肝心の監督官庁自体がPCBという有毒物質が事実上、野放し状態になっていることを認めたことになる。この日の質疑応答の中で上田市長は移管場所について、「新興跡地内に残されている上部平坦地(旧東公園)と下部平坦地の連絡通路だと聞いている」と答えた。県と市は将来的には「行政代執行」も視野に入れて対処したいとしているが、私はこの間の「行政の不作為」を指摘したい。

 

 カネミ油症事件の第一歩から取材した経験のある私の脳裏にはいまだに後遺症に苦しむ患者たちの苦悩の姿が刻まれている。それだけに「万が一」という言葉が去来する。「万が一、不法な状態に置かれた場所から、地震などの自然災害でPCBが漏れだしたり、不測の事態で外部に持ち出されたりして、市民に健康被害が及ぶようなことでも起きたら…」―

 

 この日の答弁で上田市長は本舘議員の同じような危惧に対し、「当該PCBは容器に密閉された状態になっており、カネミとは状況が違う。市民に直接被害が及ぶことは考えにくい。また一連の係争状態が終わったことを受け、債権者側が競売の手続きに入る可能性もある。しかし、当該地を改めて取得し、利活用するためにはざっと14億円以上の経費が見込まれる。従前の通り、取得する考えはない。“安物買い”(100万円)に手を出さなかった当初の判断はいまも間違っていないと考えている」と強調した。そうか、この人は「安物買いの銭失い」って、言いたかったんだ。”安物”を買わなかったそのツケがいま、回ってきているというのに…。

 

 解体工事の中断によって、ガレキが放置されたままになってもう4年以上の歳月が流れた。市中心部の景観を損ねたうえ、私たち市民は今度はPCBの恐怖におびえなければならない。政治家としての上田市長はこの「結果責任」について、どう考えているのだろうか。上田市政の“失政”は実は「新興跡地」の売却問題が公になった6年前のクリスマスのその日、2014年12月25日に幕が切って落とされたのだった。とんでもない「プレゼント」を押しつけられたのは他でもない私たち市民である。

 

 「世の中には(メノア-スのような)すごい会社があるもんだと思っている。本当に色んな人がいる、いないとは保証できない」―。「跡地」騒動について、上田市長はこの日、まるで「他人事」みたいにこう繰り返した。真の政治家とは、その“結果”についても責任を負うべきものではないのか。「『歯ボロボロ』『徐々に肌黒く』…カネミ油症2,3世の『叫び』アンケートに」―。たまたま同じこの日の長崎新聞はこんな見出しの記事を報じた。そこにはYSC(カネミ油症被害者支援センター)がまとめた、半世紀以上たった今もなお続く後遺症の恐怖が赤裸々に記されていた。

 

 

 

(写真はガレキの荒野と化した新興跡地。高濃度PCB廃棄物は解体途中の建物の残骸部分(左手中央部)の中に運び込まれているらしい=花巻市御田屋町で)

 

 

 

《追記》~この人の“危機”管理って…コロナ禍のかじ取り、大丈夫!?

 

 いま、目の前に広がる無惨な光景のよって来たるゆえんを一方的に「すごい会社」(メノア-ス)のせいにし、カネミ油症の悲劇を平然と「対岸の火事」として切って捨てる、この人・上田市長の“危機”管理は一体、どうなっているのか。こんな「すごい会社」の正体を見抜けなかった、その”節穴”ぶりの方が私にとっては、もっと「すごい」と感じてしまう。最大の被害者はこんな人に市政を委ねた私たち市民にちがいないのだが、こんな人を選んだ責任もまた「ブーメラン」(1992年制作の米国映画)のように、私自身を含めた私たち市民にはね返ってくる。おのれの不明を恥じ、忸怩(じくじ)たる思いが募る。そういえば、この日はあの泥沼の戦争に突入した”開戦記念日”であることを不意に思い出した。足元の市職員のコロナ感染が確認された。ふんどしを締め直して、危機管理に取り組んでほしいと切に願いたい。参考までに、上掲の新聞記事(12月8日付)を以下に転載する。

 

 

 痛切な“叫び”が、アンケ-ト用紙の自由記述欄にびっしりと記されている。油症認定患者の子や孫ら「次世代」を対象としたカネミ油症被害者支援センタ-(YSC)の実態調査。病状、生活の苦しさや将来への不安、やり場のない怒り―。次世代被害者や親たちの過去と現在が、ありありと浮かび上がってくる。認定患者である親や祖父母らが主に回答。子や孫が直接答えていないのは、油症について知らされていないケ-スが多いことなどが要因だ。一方、親だからこそ知る子らの幼少期の病状や暮らしぶりが詳しく分かった。

 

<突然倒れる子>

 

 「母乳を与え始めた頃から徐々に肌が黒くなった」。認定患者の母親は、未認定の息子(21)の幼少期についてこう答えた。油症の主因ダイオキシン類は、汚染油を摂取した女性の胎盤や母乳を通じ、子に移行すると指摘されている。「子どもの頃は自宅でゴロゴロすることが多く、運動靴を履いたことがない。食が細い」。45歳男性の症状。調査対象者49人の多くに幼少期から「異変」があった。選択式の設問では17人が全身倦怠感を訴えた。47歳女性は「小学1年の時、学校から帰って玄関で倒れた。鼻血はしょっちゅう。骨の痛み。学校で走ると3日くらい休んだ」。突然倒れた例は他にも。幼少期の症状が、成人後も続くケ-スが少なくない。

 

<一面のにきび>

 

 「歯はボロボロでほとんどない」(45歳男性)、「小学校から現在まで常時歯科に通院。医者によると、その根が腐ってまた虫歯になる」(35歳女性)など、口の疾患も目立つ。子どもの頃に歯が生えない事例は4人。2014年以降、次世代被害者の先天性永久歯欠如を調べた医師や歯科医師は、「(一般的な)全国調査と比べても異常な出現頻度。ダイオキシン類が次世代や次々世代に及ぼす影響を示している可能性がある」と指摘する。認定患者に多く見られる皮膚疾患も次世代に現れている。25歳男性は「小学校高学年の頃からにきびが出始めたが、25歳になっても収まらず、背中一面や顔などに及んでいる」。色素沈着のいわゆる“黒い赤ちゃん”として生まれた人も複数いた。

 

<言葉にできず>

 

 51歳と46歳の姉弟は生まれつき目が見えず、姉は腸の疾患のため2歳で人工肛門を取り付けるなど重い障害があったが、いずれも油症認定されていない。「認定患者の姉と症状が似ている」(50歳女性)「親より症状が重い」(38歳女性)など、認定患者と似た症状が子どもにも多いとの指摘もある。子どもの側も、不安や苦しみを親に隠していたり、うまく伝えられなかったりしている現状がある。31歳女性はこうつづった。「子どもには、親が心配すると考えて言えない悩みや、言葉に出せない次世代特有のつらさがある」