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第3回「図書館と私」オンライン講演会…「まるごと市民会議」主催

  • 第3回「図書館と私」オンライン講演会…「まるごと市民会議」主催

 

 「図書館のあり方をみんなで考えよう」―。「新花巻図書館―まるごと市民会議」主催の第3回オンライン講演会が28日(日)に開かれた。講師は当会議の発起人の一人である映像作家の澄川嘉彦さん(東和町在住)。市内外から19人が参加した。「図書館問題は図書館だけの問題ではない」と題するタイトルをシンボリックに表すエピソ-ドとして、澄川さんは「風倒木」という言葉を披露した。代表作のひとつにドキュメンタリ-映画「タイマグラばあちゃん」がある。滋賀県のある図書館で開かれた上映会の際、会場入り口にこの3文字が大書された横断幕が掲げられていた。「木は腐ることによって、次の世代を育てる。岩手の風土にぴったりのメッセージに感動した」と澄川さん。

 

 「図書館も風倒木であらねばならない」と講演の口火を切った澄川さんは自身が制作を手がけた「証言記録・東日本大震災『住民主導の集団移転―宮城県東松島市』」(2月14日NHK総合テレビで放映)を下敷きにしながら、話を進めた。「奇跡」とも言われた東松島市の集団移転は最初、行政側が仕掛ける形で始まり、最後は住民側が行政側の尻をたたくという理想的な「住民参加型」の震災復興として、注目されている。「そこには『住むのは私たち』という揺るぎない連帯感があった。ややもすれば、“ガス抜き”と受け取られかねない行政側の説明会を逆手に取り、住民側が自治を勝ち取った稀有な成功例。この裏には当時の市長が年間424回も地域に足を運び、住民の声に耳を傾けたという熱意もあった」―。澄川さんはこう語り、「若干、誤解を招きかねないが…」と続けた。

 

 「自分がバカだと思える行政マンほど優秀だと思う。住民意識の根底にはいろんな知恵が潜んでいることに気づかされるからだ。だから、行政側には逆にその意識を掘り起こす力量というか本気度が試される。図書館の問題も結局は同じこと。この講演会が行政と住民を結びつけるきっかけになってくれれば。あと、既成観念にとらわれないという点で言えば、宮沢賢治の関係図書は2次資料や映像記録、マンガ、翻訳本、研究書など100%の"賢治" 図書館を目指すとか…」

 

 第4回目の「図書館と私」シリ-ズのオンライン講演会は当市出身の童話作家で、最新作『岬のマヨイガ』の映画化や劇化などで注目されている柏葉幸子さんをお招きし、4月中の開催を予定している。なお、澄川さんの講演録画は「まるごと市民会議」のファイスブックで公開する。

 

 

 

(写真は資料に埋まった自室から講演する澄川さん=28日午後、パソコン画面から)

 

「老老」日記…「デンデラ野」残酷物語―食べ物の恨みは!?

  • 「老老」日記…「デンデラ野」残酷物語―食べ物の恨みは!?

 

 

 「食べ物の恨みは恐ろしい」―。げに「そのこと」を実感させられる日々である。ここに掲げたメニュ-は私の活力の源(みなもと)になっているある日の朝食。ただし、場所は外食先。「じじ・ばばが楽しく働く/じじ・ばば・若者・子供が楽しく集う/安全・安心の地場のものを食べる、そんなカフェです」…ホンワカとした宣伝文に誘われて、テ-ブルに着いた。運ばれてきたお膳を見て、感動に胸が高まった。生野菜つきハムエッグに焼き魚、納豆に煮物の小鉢と漬物。味噌汁が香ばしいにおいを漂わせ、湯気を立てている。ホッカホカのご飯は2杯までお代わりOKで、お値段はたったの350円なり。

 

 大げさに聞こえるかもしれない、この〝感動”物語の裏には実は「恨み節」がある。2年半前、妻に先立たれた私はコロナ禍の追い打ちでついに、独居自炊の生活を断念。昨年夏に現在のサ高住(サ-ビス付き高齢者向け住宅)に転居した。同じ花巻市内という地の利に加え、なんといっても「3食付き」という条件に飛びついた、はずだったが…。「これで残り少ない余生も有意義に過ごせるのではないか」という夢ははかなくも潰(つい)え去った。まるでお通夜のような食事風景と何よりも目の前に置かれた食べ物の品ぞろえに心底、「ゾッ」とした。たとえば、コメント欄に掲載した1月28日提供の朝食の写真をご覧いただきたい。枝豆のふわふわ豆腐、マヨ和え、味つけ湯葉、あっさり高菜にご飯とみそ汁で、こっちは500円なり。

 

 入居時の「食事サ-ビス契約書」には1日3食の食事提供を受ける対価として、月額48,600円(うち、消費税3,600円。朝食500円、昼食400円、夕食600円)を支払うことが定められ、当然のことながら、私自身もこれに同意している。さらに食事内容も“湯煎料理”というレトルトの食材を使用するという説明も事前にあった。まあ、これも老人向けの“健康食”かも知れないと甘んじることにしたが、べじょべじょに溶けそうなオヒタシや種類は違っても味つけは変わらない魚や肉の3食攻勢にさすがに辟易(へきえき)するようになった。「あったかいご飯とみそ汁、それに漬物の切れ端さえあれば、それで十分だ」―。戦時下の窮乏期に育った私はふいに、母親の言葉を思い出して合点した。「そうだ、ここに欠けているのは愛と心なのだ」と―

 

 そんな悶々としたある日、冒頭のホンワカカフェを見つけた。施設から車で5分ほどの近さである。契約通りの食費を払いつつ、私は2月から朝と昼をこの店で取るようにした。食事の中身や値段をことさら、言い募ろうという気持ちはさらさらない。だがその一方で、私はこの店で“干天の慈雨”をのどを鳴らしながら、飲みほしたような気持になったのも事実だった。「食こそが人権のかなめ」(食の民主主義)という言葉がある。施設側に言わせれば、私の自己都合(つまりは我がまま)と言いたいのであろうが、私にとっては自己防衛のための止むを得ざる選択である。

 

 今月13日午後11時08分、福島県沖を震源とする最大震度6強の地震発生(当地は震度4)。泊まり勤務の男性アルバイトと声をかけ合いながら、入居者の安否を確認した。90歳前後の高齢の女性たちはベットの上で恐怖におびえていた。私が普段から声掛けをしている88歳のYばあちゃんが翌日、パジャマ姿のまま、廊下を這いまわっているのに出くわした。うめくように言った。「地震がおっかなくて。おら、いつも一人ぽっちだ。食事も残せば怒られると思って、無理くり腹に押しこんでいる。おらはもう、ここから逃げ出したくなった」―

 

 「去るも地獄、残るも地獄」…“人質”という嫌な言葉が口からこぼれた。コロナ禍に翻弄される老人コミュニティの闇を見せつけられる思いがした。人生の最後になるであろう〝人権“闘争への宣戦布告をモグモグつぶやいている自分に一瞬、ぎくりとした。と同時に、それに向かって踏み出すであろう、もう一人の自分も予感していた。「たったひとりの人権も守れないお前の人生とは一体、何だったのか」と。人権を「侵害する側」と「侵害される側」との境界線が“不分明”の時代を、私たちは生かされているのかもしれない。それはあたかも「人間」の「幽霊化」(正体不明のおばけ)のようにさえ見える。さ~て、窮鼠は(きゅうそ)は猫を噛むのかどうか……

 

 2月20日に命日を迎えた『蟹工船』の筆者、小林多喜二の生涯を描いた故・井上ひさしさんの戯曲「組曲虐殺」のセリフの一節を朝日新聞のコラム「日曜に想う」(2月21日付)が紹介していた。「絶望するには、いい人が多すぎる。希望を持つには、悪いやつが多すぎる」―。まわりを見回すと、まこと「悪いやつら」が我がもの顔で闊歩(かっぽ)している。

 

 

 

 

(写真は心がこもった手づくりの朝定食=花巻市内のカフェで)

 

第3回「図書館と私」オンライン講演会…「まるごと市民会議」主催

  • 第3回「図書館と私」オンライン講演会…「まるごと市民会議」主催

 

 「図書館のあり方をみんなで考えよう」―。「新花巻図書館―まるごと市民会議」主催の第3回オンライン講演会が今月28日(日)に開かれる。講師は当会議の発起人の一人である映像作家の澄川嘉彦さん(東和町在住)。演題は「図書館問題は図書館だけの問題ではない」。講演会は午後2時スタ-トで、質疑応答にも応じる。15日付の広報「はなまき」やまるごと市民会議のフェイスブックで案内している。

 

 澄川さんがプロデュ-サ-として制作した「証言記録・東日本大震災『住民主導の集団移転―宮城県東松島市』」が「3・11」10年周年を前にした今月14日、NHK総合テレビで放映され、多くの注目を浴びた。この町の震災復興について、澄川さんは「避難所に満ちていたあの助けあいの気持ちをそのまま復興につなげた」―稀有な成功例として紹介。「何より大切なのが、顔をつきあわせての話し合い。これをサボってはダメだった。面倒くさいことほど真実に近い。震災復興も図書館づくりも根っこは同じ。他人事ではなく、『住むのは私たち』という意識が大切」と話している。住民参画のまちづくりの実例を踏まえた講演が期待される。多くの皆さんの参加をお待ちします。

 

 

「新花巻図書館―まるごと市民会議」設立趣意書

 

 「図書館って、な~に」―。コロナ禍の今年、宮沢賢治のふるさと「イ-ハト-ブはなまき」では熱い“図書館”論議が交わされました。きっかけは1月末に突然、当局側から示された「住宅付き図書館」の駅前立地(新花巻図書館複合施設整備事業構想)という政策提言でした。多くの市民にとってはまさに寝耳に水、にわかにはそのイメ-ジさえ描くことができませんでした。やがて、議会内に「新花巻図書館整備特別委員会」が設置され、市民の間でもこの問題の重要性が認識されるようになりました。「行政に任せっぱなしだった私たちの側にも責任があるのではないか」という反省もそこにはありました。

 

 一方、当局側は「としょかんワ-クショップ」(WS)を企画し、計7回のWSには高校生から高齢者まで世代を超えた市民が集い、「夢の図書館」を語り合いました。「図書館こそが誰にでも開かれた空間ではないのか」という共通の認識がそこから生まれました。そして、その思いは「自分たちで自分たちの図書館を実現しようではないか」という大きな声に結集しました。

 

 そうした声を今後に生かそうと、WSに参加した有志らを中心に「おらが図書館」を目指した“まるごと市民会議”の結成を呼びかけることにしました。みんなでワイワイ、図書館を語り合おうではありませんか。多くの市民の皆さまの賛同を得ることができれば幸いです。     

 

2020年10月25日 

 呼びかけ人代表  菊池 賞(ほまれ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「老老」日記…マヨイガとデンデラ野の狭間にて―東日本大震災から丸10年

  • 「老老」日記…マヨイガとデンデラ野の狭間にて―東日本大震災から丸10年

 

 「あの津波の日,わたしたちは『そこ』にいた。そして、岬の古い家(マヨイガ)で家族のように暮らしはじめた」―。東日本大震災(3・11)から丸10年を目の前にした2月初旬、被災地再生の物語ともいえる演劇「岬のマヨイガ」(脚本・演出、詩森ろば)を盛岡劇場で観た。原作は当地・花巻出身の童話作家、柏葉幸子さん(67)の同名の作品で、野間児童文芸賞の受賞作。鑑賞しながら、不思議な既視感にとらわれた。コロナ禍の中でバラバラになった人間関係をもう一度、結(ゆ)い直そうという記憶の磁場みたいなものを感じたからだろうか。

 

 あの日―。父母を交通事故で失い、言葉を話せなくなった少女「ひより」と、夫の暴力に耐えかね、東京から逃れてきた「ゆい」、それに遠野生まれの86歳のおばあちゃん「キワ」の3人はそれぞれの事情で沿岸にある岬の駅「狐崎」に降り立った。大震災に見舞われたのはまさにその時である。中学校の体育館に避難したふたりは、身元を問われて困惑してしまう。帰れる家も帰りたい家もないからである。救いの手を差し伸べたのがキワばあちゃんだった。血のつながらない3人の不思議な共同生活が岬の突端にあった大きな古い家で始まった。津波を引き起こしたのはどうもウミヘビの仕業らしい。女優、竹下景子が演じるキワばあちゃんの出番である。

 

 「遠野では、山中の不思議な家をマヨイガといいます。マヨイガに行き当たった人は、かならずその家の道具や家畜、なんでもよいから、持ってくることになっているのです。なぜなら、その人に授けようとして、このような幻(まぼろし)の家を見せるからです」(口語訳『遠野物語』:柳田國男著、後藤総一郎監修)―。「岬のマヨイガ」を舞台としたウミヘビ退治の合戦の始まりである。キワばあちゃんの神通力で近郷近在のカッパたちがおっとり刀で駆けつけたかと思えば、老いて“妖怪”に変身したオオカミや猿などの「ふったち(経立)」たちも縦横無尽に活躍する。遠い記憶の総動員…。舞台にくぎ付けになっているうちに、もうひとつの物語がよみがえった。

 

 111話の「ダンノハナと蓮台野(れんだいの)」と題する小話にはこうある。「昔は、60歳をこえた老人はみんな、この蓮台野に追(お)ってやるならわしがありました。追われた老人も、むだに死んでしまうわけにはいきませんから、日中は里に降りて、農作業などをして暮らしを立てていました。そのために、いまでも山口、土淵のあたりでは、朝、田畑に働きに出ることを『ハカダチ』といい、夕方になって、野良(のら)から帰ることを『ハカアガリ』というそうです」(同上)

 

 私がいま、入居している「サ高住」(サ-ビス付き高齢者向け住宅)がさしずめ、この蓮台野に相当するのかもしれない。当年80歳の私のように死ぬまでに若干、間があるような“元気老人”のつかの間の「生けれる場所」である。そう思って、あたりを見回してみたら…。あれっ!「ハカダチ」の気配はほとんどないではないか。111話の注釈にこんなことが書いてある。「境の神を祭る塚のある小高い丘をダンノハナ(共同墓地)といい、それと向かい合う場所に蓮台野があります。デンデラ野と呼ばれる姥捨(うばすて)の地でした」―。施設の中はし~んと静まり返り、高齢の入居者の多くは食事以外は自室にこもりがちである。「もしや、ここは現代のデンデラ野ではないのか」―そう思うと、背筋にゾッと寒気が走った。

 

 「あの震災から10年。やっと、たちあがり一歩二歩と歩き出したのに、このコロナです。今は立ち止まってますが、必ず次の1歩を力強く踏み出したい。踏み出せると信じています。そして、『岬のマヨイガ』のお芝居が、その力になるだろうと確信しております」―。柏葉さんは今回の舞台化にこんなメッセ-ジを寄せている。さて、この私はといえば、「マヨイガ」と「デンデラ野」の間を行ったり来たりする苦悶の日々である。マスコミは連日、高齢者のコロナ死を伝えている。

 

 なお、柏葉さんには今年4月、「新花巻図書館―まるごと市民会議」が主催する「図書館と私」シリ-ズのオンライン講演会に講師としてお招きする予定である。ご期待ください。

 

 

 

(写真は舞台狭しと躍動するカッパたち=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記-1》~証言記録・東日本大震災「住民主導の集団移転―宮城県東松島市」

 

 「新花巻図書館―まるごと市民会議」主催のオンライン講演会「私と図書館」シリーズの3人目の講師である映像作家、澄川嘉彦さんが制作した表題のドキュメンタリー映像が14日(日)午前10時5分からNHKの総合テレビで放映される。澄川さんは「『住むのは私たち』という点では震災復興も図書館づくりも根っこは同じ」と話している。オンライン講演会は2月28日(日)午後2時から。15日付広報「はなまき」や「まるごと市民会議」のフェイスブックで案内している。

 

 

《追記ー2》~なんという因果!?

 

 澄川作品が放映される前日の深夜、福島県沖を震源とする最大震度6強の大地震が発生した。「3・11」の余震とみられる。10年前の記憶を呼び戻そうとするかのような”神意”さえ感じる。それにしても、なんという因果か――。地震報道のため、放映は少し遅れて始まった。東松島市の復興の足取りを伝える画面上には今回の地震の負傷者など被害状況のテロップが流れ続けていた。

 

 

 

 

 

市長らの説明責任を…オンライン会議最終回、ああああ”末人”どもよ!?

  • 市長らの説明責任を…オンライン会議最終回、ああああ”末人”どもよ!?

 

 「市長ら政策立案の最終責任者も参加して、市民の疑問に耳を傾けるべきではないか」―。新花巻図書館に関し、市民と意見交換をするオンライン会議の最終回(全3回)が6日午前10時から正午すぎまで行われた。前回より3人多い14人が参加したが、上田東一市長ら行政トップの参加を求める意見が相次いだ。図書館問題を集中的に協議する場として、1年前に「新花巻図書館整備推進プロジェクトチ-ム」が発足。藤原忠雅、長井謙の両副市長がチ-ムを率いるマネ-ジャ-に就任した。この間、WS(ワ-クショップ)や各種団体との協議や意見集約が断続的に開かれてきたが、上田市長はおろか、両副市長の姿をついぞ見かけることはなかった。

 

 「土台、その組織の実態さえ見えてこない。トップの考えを聞きたい」と参加者のひとりが口火を切った。もうひとりが「今日で最後になる会議には事前に両副市長の出席も要請した。なのに…。欠席の理由を明らかにしてほしい」と語気鋭く迫った。この発言を引き取る形で私は「市長と両副市長のトップ3が顔をそろえた会議を別途、企画すべきだ。これで幕引というのであれば、これほど市民を馬鹿にした話はない」と要望。市川清志・生涯学習部長は「要望として…」と蚊の鳴くような声で、ボソボソ答えた。

 

 「”上田風”がビュンビュン、吹き荒れる中では大変難しいことだとは思うけれども、生涯学習部の現場職員に頑張ってもらうしかない。上からの風当たりも強いとは思うが、市民と肩を並べた啓発活動に期待したい」―。別の参加者がこう訴え、トップダウンの政策決定に厳しい注文を付けた。これに関連し、私は花巻城址の「東公園」(新興製作所跡地)に新図書館を立地してはどうかという“自説”を述べた。上田“ワンマン”市政を象徴する事例だと思ったからである(2020年12月28日付当ブログ参照)

 

 「本市は、宮沢賢治や萬鉄五郎をはじめとした多くの先人を輩出しています。江戸時代の先人を顕彰した『鶴陰碑』に記された人々は自らの研鑽に精進し、学術文化はもとより、地域や産業の振興と発展、そして後継者の育成に努力を重ねてきました。花巻には歴史的に学びの風土があり、この精神は私たちの次の世代に受け継いでいかなければなりません」―。市当局が新図書館づくりの理念と位置付ける「新花巻図書館整備基本構想」(平成29年8月)にはこう謳われている。かつて、この鶴陰碑が建っていた場所こそが「東公園」であり、賢治作品の舞台のひとつでもあった。考えて見れば、花巻文化の発祥の地ともいえるこの場所こそが「新花巻図書館」立地の最適地ではないのかというのが私のかねてからの考えだった。

 

 この日の会議でも市川部長はこの「鶴陰」精神の大切さを強調したが、実は昨年末に東公園の地下部分に新興製作所が触媒(断熱)に使っていた猛毒のPCB(ポリ塩化ビフェニ-ル)が不法に放置されていることが明らかになった。あのカネミ油症事件の原因物資である。複雑な紆余曲折を経て現在に至っているが、当初、当該地が売却されることになった際、わずか100万円で市当局が取得するチャンスがあった。しかし、上田市長は「売値は確かに安いが、その後の建物撤去や整地などに莫大な費用がかかる。将来の利用目的もない」と取得を拒否。その後、悪質な不動産業者の手に落ち、関係者の間で裁判沙汰が起きるなどゴタゴタが続いた結果、「兵(つわもの)どもが夢の跡」の残骸をさらけ出しているのは衆目の知るところである。

 

 一時は適法に保管され、監督官庁の県や市の監視下にあったPCBが昨年末、突然、現在地に秘かに移されたことから、状況は一変した。不動産業者の所在もつかめなくなり、放置場所の確認もできないままの不法状態が続いている。市民の安心・安全の確保こそが首長の使命だとするなら、その除去をこそ急ぐべきではないか。私はこうした観点に立って持論を展開した。「このままの状態が続き、万が一の事態が発生した場合には市当局の責任が問われることになる。当該地を一刻も早く市有地化してPCBを取り除き、将来の有効利用については広く市民の意見を募ったらどうか。鶴陰碑があったという由緒ある城跡こそが新図書館にふさわしい。なによりもお城ならでは眺望がすばらしい」

 

 この一件について、上田市長は先手を打つ形でこう答弁している。”人命”よりも費用対効果(つまりは金目)を優先させる、この人ならではの政治姿勢が面目躍如である。「当該PCBは容器に密閉された状態になっており、カネミとは状況が違う。市民に直接被害が及ぶことは考えにくい。当該地を改めて取得し、利活用するためにはざっと14億円以上の経費が見込まれる。“安物買い”(100万円)に手を出さなかった当初の判断はいまも間違っていないと考えている」(昨年の花巻市議会12月定例会)―。この日のオンライン会議で私が改めてこの点をただしたのに対し、市川部長は「私の管轄ではないが、PCBは法律にのっとって、きちんと保管されているはずだ」と“不法放置”の実態さえ知らなかった。トップダウンに加えて見事なまでの“縦割り行政”…。こんなことじゃ、行政が機能するはずは最初からないわけだ―と妙に合点したのだった。

 

 ツァラトゥストラ(ニーチェ)がいう”末人”(まつじん=ラストマン)とは、イーハトーブ(賢治が夢見た理想郷)に巣食う我がまちのトップ3を指すのではないか。つまりはその者たちの”末路”を―ー

 

 

 

 

(写真はオンライン会議で示されたパワ―ポイントの資料。立地候補地のひとつとして、「東公園」もリストアップされている=2月6日午前、自室のパソコン画面から)

 

 

 

 

《追記》~カネミ油症、次世代への影響調査へ

 

 当ブログをアップする2日前のNHK「時論公論」で、表題の放映があった。若干長めの解説だが、上田市長の目を覆うばかりの危機意識(リスク管理)の欠落ぶりを再認識する意味で、以下に全文(図表は除く)を転載する。

 

 

 

 1968年、食用の米ぬか油に有害な化学物質が混入し、およそ1万4千人もの人が健康被害を訴えたとされる「カネミ油症」。国内最大規模の食品公害とも言われます。先週土曜、国は被害者の子供の世代への影響を調査する方針を示しました。カネミ油症を引き起こしたそもそもの原因は、PCB・ポリ塩化ビフェニルという人工の化学物質。無色透明の液体です。熱に強く電気を通しにくい性質などから、かつては電気設備の絶縁用の油や塗料・インクの溶剤など世界で広く使われ、国内でも5万トン以上使用されました。
 

 ところが1968年、北九州市の企業が製造した食用の米ぬか油を口にしていた人たちに激しい皮膚炎などの健康被害が多発。この米ぬか油の製造設備で使われていたPCBが加熱されて、さらに毒性の強いダイオキシン類も発生し、これらが米ぬか油に混入してしまったとされています。1972年にPCBの製造は中止されましたが、PCBを含む廃棄物の処理は有害物質の焼却処分に各地で反対運動が起きたことなどから遅れ、全国の事業所などに残されてきました。2000年代になってようやく国が全額出資した無害化処理の施設などが作られ、その処理は現在も続いています。

 

 終わっていないのは、それだけではありません。さらに深刻なのが、今も様々な健康被害に苦しんでいる人たちがいることです。発生当時、患者の全身に黒い吹き出物などの皮膚症状が現れたり、いわゆる「黒い赤ちゃん」が生まれたことなどが社会に衝撃を与えました。健康被害は全身の倦怠感や痛み、鼻血、せきやたん、手足のしびれ、月経異常など多岐にわたります。
 

 なぜこれほど様々な症状が出るのか?九州大学などの研究で、体内のAhRという受容体にPCBから生じたダイオキシン類が結びつくことで、有害な活性酸素などが過剰に作られ、それが全身の組織を傷害するメカニズムがわかってきました。すぐに現れる症状だけで無く、がんや動脈硬化のリスクが高いことも報告されています。カネミ油症の治療法は今も確立されていません。被害者は半世紀が過ぎた今も、様々な病気で苦しんでいるのです。

 

 しかし、米ぬか油を製造した会社が資金力の乏しい中小企業であったことなどから、患者への補償や救済はなかなか進みませんでした。ようやく2012年に救済のための法律ができ、国が認定患者に毎年「健康実態調査」を行って支援金として一定額を支払うなどの形になっていますが、これで十分なものと言えるか依然議論があります。また、健康被害を届け出た人はおよそ1万4千人ともされるのに対し、制度の対象となった認定患者は、既に亡くなった人を含め累計で2350人に留まります。

 こうした中で先週土曜、国と原因企業、患者の三者による協議の場で、米ぬか油を摂取した本人だけでなく、後に生まれた子供世代への健康影響はどうなのかを今後、国が研究費を出す、全国油症治療研究班が調査する方針が示されました。次世代にしぼった調査が行われるのは、はじめてのことです。
 

 カネミ油症の被害者は、汚染された米ぬか油を直接摂取した人や摂取した女性のお腹に当時いた胎児だけでなく、もっと後に生まれた現在40歳代以下の子供世代にも健康影響が出るケースがあるとされています。原因としては、母親の体内に残った化学物質が母乳や胎盤を通じて影響した可能性などが考えられますが、まだはっきりわかっていません。
 

 現在の認定患者の基準は、主に「この米ぬか油を摂取した」「特徴的な症状がある」 「血中のダイオキシン類など化学物質の濃度が高い」などがあります。しかし、油症発生から何年も後に生まれた子供世代では、症状は重くても血中濃度は親世代と比べ低い場合が多く、認定されている人は50人ほどに留まります。これに対し去年、被害者の支援団体がアンケートを行ったところ、認定されていない次世代の人たちにも様々な健康影響が出ていることがうかがわれました。これが今回、国が研究班による調査へと踏み出すきっかけの1つとなったのです。

 

 それにしても、なぜ発生から半世紀以上、次世代への影響調査はきちんと行われてこなかったのでしょう?本人世代の救済制度さえ近年になってようやく出来たということに加え、ひとつには被害者が多くの差別や偏見を受けてきたことがあります。急な体調悪化で休まざるを得ないことに理解が得られず仕事につけなかったり、女性が子供を産むことを否定するような言葉をかけられたり、親がカネミ油症だとわかった途端、親しかった友人とのつきあいが途絶えたという人もいます。こうしたことから、自分がカネミ油症であることを子供にも話せないでいる人が少なくありません。そのため次世代への影響を調べるのが困難な面もあったのです。
 

 今後の調査で、未解明のカネミ油症の次世代影響のメカニズムが解明され、多くの人の救済につながるためにも、最初のハードルは差別や偏見を恐れる被害者や子供世代の人たちから調査への同意や協力をどれだけ得られるか、になるでしょう。課題は他にもあります。
 

 被害者が望んでいるのは、一刻も早い次世代も含めた救済です。発生から半世紀以上が過ぎ、被害者は高齢化が進み亡くなった人も多く、既に孫世代もいます。現在の認定基準で重視される1つが血液中のダイオキシン類などの濃度ですが、血中濃度が低くても深刻な症状を抱える人もいます。長崎県に住む認定患者・下田順子さんの娘の恵さんも、皮膚症状や頭痛、鼻血、せき、倦怠感など母親と同じ症状が幼少期からあり生活に支障がありますが、血中濃度が低く、認定されないと言います。
 

 恵さんは次世代調査を通して、一律の血中濃度ではなく症状を重視して認定されるよう、認定基準の見直しにつながることを期待しています。たしかに、直接は有害な油を摂取しておらず血中濃度が低い人の症状をカネミ油症かどうか見極めるのは容易なことではないでしょう。しかし、時間は限られています。深刻な健康被害を受けたにも関わらず取り残される人がないよう、国は取り組みを加速してもらいたいと思います。

 

 そして、「患者への差別や偏見」が被害者をさらに苦しめ対策の足かせにもなる、これはカネミ油症だけで無く、現在の新型コロナウイルスでも起きている問題です。病気になった人は決して非難されるべき存在では無く、私たち誰もが同じ立場になりうるのだという認識が共有されることが、解決には欠かせないでしょう。発生から半世紀以上経つカネミ油症の問題は、あらためてそのことを問うているように思います。(土屋 敏之 解説委員)