桜人(さくらびと)という言葉は「源氏物語」に登場します。お花見は貴族のものと思われがちですが、春に田んぼの神が、山から里に帰ってきたしるしに桜が咲き、神のおもてなしに、村人が桜に集まったことがお花見の始まりと言われています。
桜はくっついて咲き、やがて散り散りになり、川面を染める花筏に集まっても、また離れ離れになります。幾年月か後の春、花にも再会があるかもしれません。花の一つ一つ、人間一人一人も、輪廻転生の中にいるように思うのです。
桜はたとえ幹が折れても、何も言わず春には咲き、春が短くとも冬が長くても、あるがまま、全てを受け入れて生きています。
人はいつも困難はすぐに逃れたいともがき、良いことが続くことを望みます。どちらも悠久の時間の中では一瞬のこと、今の大切さを教えてくれる桜の生きざまが、私が桜を愛してやまない理由の一つかもしれません。コロナの拡大やロシアの侵攻による困難の中、お互いを非難しあい、物の買い占めに走る人々の姿に、残念というより悲しさを感じずにはいられません。
危機への心がけは大切ですが、争わず、競わず、媚びず、桜のように精いっぱい生きる喜びを感じてこそ、幸せになれるのではないでしょうか。今度桜の下を通るとき、そんなことも想像してみてください。
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