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あのアンドレ・プレヴィンが、、、

  • あのアンドレ・プレヴィンが、、、
NHK交響楽団の客演主任指揮者に任命されたそうです。御年79歳、3年の契約とのことで、元気なのですねぇ。

ロンドン交響楽団、ロイヤルフィル、オスロフィル、ヒューストン、ピッツバーグ、ロサンジェルス・ハーモニックなどを振っていたのですが、時々ウィーン・フィルにも客演しています。

客演で主任というのがよくわからないのですが、私にとってはシェリーマンのマイ・フェア・レディのジャズピアニストのイメ-ジが強いです。
タン、タ-タ、タン、タン、タン、タン、ピン、ポコ、ピロンという教会へ行こうで始まる、コンテンポラリー盤の淑女のジャケットが思い出されます。あとシェリーマンの出色のブラッシュワーク、ああ、聞きたくなった。

写真は朝の吾妻山です。
2009.02.27:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

私の履歴書(楽隊篇)

  • 私の履歴書(楽隊篇)
日経の最終頁に載ってる私の履歴書ですが、大概企業の社長の自慢話なのですが、2年ぐらい前に掲載された故遠藤実先生のは最高でした。

さて、私の場合ですが、、、

何となく、楽器というものが好きだったのでしょう。子供の頃から興味はありました。問題なのは修行が嫌いなのです。それではうまくなりません。その辺は現在も変わりません。
そして、相変わらず中途半端ではありますが演奏は続けております。

管楽器の付き合いは中学1年に遡ります。体操が苦手なので、ブラバンに入りました。トロンボーンを吹くことになりましたが、全く出来ませんでした。いやいやながら3年間を過ごしました。

高校になりました。ブラバンでは痛い目にあったので、山登りを始めました。ただし誘ってくれる方があり、BBショックというバンドにトロンボーンとクラリネットで混ぜてもらいました。

大学に入りました。その頃ブルースという音楽に興味を持ち、大学のサークルでブルースを弾けるギタリストがいる、ということでカントリー&ウエスタン(?)のバンドに入りました。下北沢スーパー・マーケットというライブハウスに出してもらいました。そのときのヴォーカルは歌川さんという人で、その後ペプシだかコカだかのコマソンを歌っていましたが、その後どうされているのか、、、そのころサックスを買ってサックス奏者になりました。

やはり方向性が違うため、自分でバンドを作ることを考え、いろんなライブにいき、武蔵野音楽学院という専修校のひとと仲良くなり、オールド・ディックスというバンドを作りました。吉祥寺マンダラをはじめ、渋谷ラ・ママとかいろんなライブハウスに出してもらいました。

その後、バンド内の改編があり私は、ライブで対バン(対抗バンドの略か?)だったコールド・スエッツというバンドに拾われました。そこでドラムをたたいていたのが現在東京スカパラダイスオーケストラでテナーサックスを吹いているGAMO君です。ここのバンドは女の子に人気があり、私が勤めた中では唯一のそういうバンドで楽しかったです。ライブハウスも原宿クロコダイル、新宿アンティノック、などに出させていただきました。

その間、バンド名は忘れましたが、丸君というサックスにピックアップされて神楽坂エクスプロージョンやロックの殿堂新宿ロフトにも上がらせていただきました。

コールド・スエッツはパナマ・ナイト・クラブからパナマへとめまぐるしく改名し、それをやりながら自己のバンド、スイート・ナイツ・トウキョウというサックス・ギター・ベースのバンドを結成しました。

そうしているうちに、オールド・ディックス時代のサックスから誘われ、横浜のチャーリー宮毛という鳳敬助さんのお弟子さんののバンドにトラで呼ばれました。ライブハウスは今はなき横浜は山下のバンドホテルのそばのシェルガーデン。なかなか味のあるライブハウスでした。そこであったピアノの人と意気投合、楽団:魅惑の羽衣が結成されました。

下北沢ロックン・ロール・ダイナ、高円寺次郎吉、イカ天なんかにも出させていただきました。メンバーのラッパの人がその頃プロとして幾多の演歌歌手の伴奏で活躍しておられ、一回だけキャバレーの演奏にも参加させていただきました、譜面も読めないのに。今は若干読めるようになりました。

その後米沢に戻り、女性ヴォーカルの伴奏、ロックン・ロールのバンドを経て、現在のスターダスターズというフル・バンドにたどり着きました。今後もどうなるものやら。

スター・ダスターズは今年が10回目のコンサートになります。そのときは是非いらしてくださいますよう、角から角までずず、ズイトー、宜しく御願奉ります。

写真はあと4日で終了する冬珈琲です。キリマンジャロ中心の香りのいいブレンドです。残り僅か、いかがでしょうか。

2009.02.24:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

西への憧憬。

  • 西への憧憬。
生まれて育ったのが米沢で、なぜか関西への憧れが強くありました。何でか知れませんが、高校のときやっぱり京大とか同志社とか、立命館とか行くものもいましたね。

なんといっても西の雄はあの当時、かしまし娘ではなかったでしょうか。東のクレージー・キャッツに対して一歩も引かない力がありました。そして藤山寛美という人が席巻する時代が来ます。藤山寛美3600秒という劇場中継を毎週やってました。

子供の頃学校の図書館の落語全集で憶えたのとはちょっと違う落語が聞こえてきたのは、多分現在人間国宝の米朝師匠だったのかもしれません。その後春談治、小文枝、そして松鶴の落語を聴くのは、弟子の鶴光のオールナイトニッポンを聞くようになってから、少ししてだったと思います。

その間、漫画トリオ、いとし・こいし、ダイマル・ラケット、宮川左近ショウ、ちゃっきり娘、フラワーショウ、Wヤング、やすし・きよし、チャンバラトリオ、柳次・柳太、はんじ・けんじなど、見ました、見ました、西の人の素晴らしい芸を。その後ですかね、伸ハワイ、洋介喜多代、千里万理、お浜小浜、なんかを意識したのは。
漫才ブームの前の吉本が息を吹き返す前の混沌とした時代だったのかもしれませんね。

東京落語のほとんどは上方のネタです。しかも漫才もかなりかぶってます。ちょっと分かるとまたこれが面白い。当然能、狂言、歌舞伎も総てかぶってます。勝手に芸術にしている人がありますが、全く元は一つです。

写真は昨日作った鶏の手羽の煮物です。鶏は名古屋が本場ですが、名古屋の笑いも侮れないと聞いております。
2009.02.18:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

歌謡ショウはいかがでしょうか。

  • 歌謡ショウはいかがでしょうか。
これは12月に寒河江に行ったとき見かけたポスターです。多分石巻の川の中洲にある岡田劇場(今は岡田プランニングといったかもしれません)の仕込みと思われます。何人かの歌手を抱き合わせる手法で細かく地方を回っています。

子供の頃は歌謡ショウといえば一枚看板が普通でした。米沢では吉田プロダクションというところが興行の胴元で、プロレスの勧進元は小島さんでした。多分酒の小島をやられていた方だと思います。

市民文化会館がまだぼろぼろの公会堂であったころは、もう使うことが出来ず、東高体育館で「ふるさとの歌祭り」をやった記憶があります。その後、体育館でも歌謡ショウをやってました。誰かのショウで、体育館ありもののPAでヴォーカルを拡声させたのですが、全く聞こえずバンドの演奏を聴きにいったようなショウもありました。ただ本人が見れればそれでよかったのかもしれません。クレージー・キャッツショウも体育館でした。

殆んどのショウは米商連の歳末大売出しの景品としてチケットが配られる方式で、チケットを販売するパターンでは米沢は不入りだといわれていました。あとクレージー・キャッツもそうだったのですが、米織組合で毎年誰かを呼んでいました。前歌があり、漫才があり本人が出るという構成だったと思います。

私が最後にみたのは、米沢市民文化会館の都はるみショウでした。神尾さんという地元出身のかたがピアノでした。

現在では、第一ホテルとか、北陽のディナーショウのほうが派手らしいです。でも機会があれば文化会館でまた歌謡ショウをみてみたいと思います。
2009.01.18:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

巨星墜つ。

  • 巨星墜つ。
毎年、次の年に行くのが躊躇われるといった感じで、鬼籍に入られるそれも巨人がいます。

今日の読売にジャズトランペット奏者フレディ・ハバードが亡くなったことが掲載されていました。70歳ということで、まだまだ若いのですが、最近はラッパを吹いている情報はなかったように思います。

いまから十数年前、蔵王ジャズに来たときも、ほぼラッパは吹けず、アドリブは先輩のジャッキー・マクリーンが一生懸命埋めていました。情報誌などに数年に一度調子が戻ってきたという記事が載るのですが、そのころからアルバムやゲストのレコーディングもなかったのではないでしょうか。

この間ラジオで聞いた古い録音はやはり素晴らしかった。私ももっといいトランペットを吹けるように精進したいと思います。
改めてご冥福をお祈りします。

そして名門劇場の閉館です。前にもちょっと話しましたが、新宿コマが今日をもって閉場となりました。

今はなき阪急電鉄及びそのグループ(東宝、宝塚歌劇とか、、)の創始者小林一三が名付けたというコマのように回る劇場、なんたって回り舞台が三重に巡らされているのですから。

梅田コマも味わいましたが、なんとも馬鹿馬鹿しい豪華さが好きでした。当然創始者はその場所が演歌の殿堂になるなどとは笹の露も思わなかったに違いありません。

とにかく北島三郎、坂本冬美、細川たかしを観覧しました。観覧という感じでした。友人がバンドにおり、楽屋で遊んで帰りしな、淡島千景先生が退出時で若い衆の皆さんと「オツカレサマデシーターァ-」をさせていただいただきました。

今はなき北島バンドの鈴木操というバンマスに「絶対リズム感」の講釈を受けたのもコマの楽屋でした。鈴木操氏は芸大卒の尺八男爵でした。



今年もお世話になりました。2009年が皆様にとって素晴らしい年であります
ようにお祈りしたいと思います。では、よいお年を!

追伸:明日の中継、明治神宮は青空球児好児さんで、角座前は鶴光でおま、でしょうか。
2008.12.31:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]