きょうはまちの広場での催事です。
あいにくの雨で、お客様の出足も丁重でした。
明日も街の広場で、8時30分から15時ごろまでの営業です。
店舗は16時ごろからの開店になります。
明日はこんなに雨も降らないでしょうから、是非物産展にもおいでください。
山形大学工学部のジャグリングやジャズ研究会もいい味を出していました。
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地方検察庁米沢支部と米朝師匠
今日のあさいちでもやっていましたが、もはやインフルエンザが話題になるシーズン、風邪をひいている方も随分いらっしゃるようです。
昨日は健康診断ということで、少し早めにすこやかセンターの健診センターに向かいました。裁判所の斜向かいの角、地方検察庁米沢支部の傍らに風の神が鎮座しています。
ちょっと覗いて、お参りをしてみました。
その説明板によると、
夏井家は元は会津の芦名氏の家臣で、夏井城(福島県耶麻郡高郷村)に住んでいました。芦名氏が伊達氏に滅ぼされた後、直江兼続をたより米沢に来て、上杉の家臣となりました。さて、夏井家に伝わる風の神の伝説は次のとおりです。
天正年間のある年の大晦日、夏井の館に貧しげな僧が一晩の宿を願ってやってきました。主人は、かわいそうに思い、僧を泊め料理と酒でもてなしたところ、翌元旦、僧は「実は自分は人間ではない。風の神(疫癘神)である。昨晩のお礼に、この家に疫癘(はやり病)が入らないように」といって、梵字の呪文を書いたお札を残し、姿を消しました。その後、夏井家では館内に風の神を祀るお堂を建て、米沢に移ってからもお堂に祀りました。
ところが、明治になって夏井家が他の町に移転したところ不幸が重なり、夏井家では風の神を移した祟りと思い、元の場所に風の神を分霊し、町内会で祀ってもらうよう頼みました。
風の神は、風邪を防ぐ神様として信仰されていたので、町内会では別当を舘山口町の千勝院に依頼し、お札を配り、祭りを続けました。昭和になってからは風の神講を作り、昭和24年には新たに御輿を作り盛大な祭りを行いました。この御輿行列は交通問題もあって中止となり、御輿は昭和41年に上杉博物館に寄贈され収蔵されています。
昭和25年、この夏井家の屋敷跡に検察庁が建つこととなりましたが、こうした理由で、特別にお堂がそのまま残されたのです。 昔は「大根二本を神前にお供えし、前の人が供えた大根一本をもらい、それを家族で食べると風邪に罹らない」といって、大根がお供えされていましたが、現在はその名残りなのでしょうか、大根2本を描いた絵馬が掛けられています。
とあります。享保10年の地図では夏井伊兵エとなっていて裏が清水守となっているのでここで水を汲んでいたのでしょうか。米沢年表には明治33年4月九里とみ、表町夏井範鑑宅にて裁縫私塾を開いたとありますが、同所なのかは不明です。
この神様で思い出すのが桂米朝師匠の「風の神送り」という噺です。
多分中学校のころNHKラヂヲで聞いたんだと思いますが、内容はあまり覚えていません。昭和40年ごろ米朝師が復活した噺らしいのですが、本人はよくわかって話しているのですが、中学生には、いや他に聞いている人にもあまりぐっと内容が伝わってくるというものではなかったような気がします。
ちょっと学校の授業のような、こっちもある程度知識がないと楽しめないような噺を米朝師匠は時折されていたような気がします。
此処の前を通るといつも米朝師匠の顔が浮かんできます。一回は生で聞いてみたい噺家の一人です。
昨日は健康診断ということで、少し早めにすこやかセンターの健診センターに向かいました。裁判所の斜向かいの角、地方検察庁米沢支部の傍らに風の神が鎮座しています。
ちょっと覗いて、お参りをしてみました。
その説明板によると、
夏井家は元は会津の芦名氏の家臣で、夏井城(福島県耶麻郡高郷村)に住んでいました。芦名氏が伊達氏に滅ぼされた後、直江兼続をたより米沢に来て、上杉の家臣となりました。さて、夏井家に伝わる風の神の伝説は次のとおりです。
天正年間のある年の大晦日、夏井の館に貧しげな僧が一晩の宿を願ってやってきました。主人は、かわいそうに思い、僧を泊め料理と酒でもてなしたところ、翌元旦、僧は「実は自分は人間ではない。風の神(疫癘神)である。昨晩のお礼に、この家に疫癘(はやり病)が入らないように」といって、梵字の呪文を書いたお札を残し、姿を消しました。その後、夏井家では館内に風の神を祀るお堂を建て、米沢に移ってからもお堂に祀りました。
ところが、明治になって夏井家が他の町に移転したところ不幸が重なり、夏井家では風の神を移した祟りと思い、元の場所に風の神を分霊し、町内会で祀ってもらうよう頼みました。
風の神は、風邪を防ぐ神様として信仰されていたので、町内会では別当を舘山口町の千勝院に依頼し、お札を配り、祭りを続けました。昭和になってからは風の神講を作り、昭和24年には新たに御輿を作り盛大な祭りを行いました。この御輿行列は交通問題もあって中止となり、御輿は昭和41年に上杉博物館に寄贈され収蔵されています。
昭和25年、この夏井家の屋敷跡に検察庁が建つこととなりましたが、こうした理由で、特別にお堂がそのまま残されたのです。 昔は「大根二本を神前にお供えし、前の人が供えた大根一本をもらい、それを家族で食べると風邪に罹らない」といって、大根がお供えされていましたが、現在はその名残りなのでしょうか、大根2本を描いた絵馬が掛けられています。
とあります。享保10年の地図では夏井伊兵エとなっていて裏が清水守となっているのでここで水を汲んでいたのでしょうか。米沢年表には明治33年4月九里とみ、表町夏井範鑑宅にて裁縫私塾を開いたとありますが、同所なのかは不明です。
この神様で思い出すのが桂米朝師匠の「風の神送り」という噺です。
多分中学校のころNHKラヂヲで聞いたんだと思いますが、内容はあまり覚えていません。昭和40年ごろ米朝師が復活した噺らしいのですが、本人はよくわかって話しているのですが、中学生には、いや他に聞いている人にもあまりぐっと内容が伝わってくるというものではなかったような気がします。
ちょっと学校の授業のような、こっちもある程度知識がないと楽しめないような噺を米朝師匠は時折されていたような気がします。
此処の前を通るといつも米朝師匠の顔が浮かんできます。一回は生で聞いてみたい噺家の一人です。
村田の陶器市を訪ねて。
今から10年ぐらい前、仙台に遊びに行くときに蔵王PAでトイレに行ったとき村田の陶器市のポスターを見かけていったのが始まりで、その時は第2回だったと思います。
村田の商人は、江戸時代から伊達藩が栽培を奨励した紅花や藍を仙南地方で買い集め、江戸や上方へ運ぶ商取引を行っていました。当時の栄華を伝える豪勢な店蔵が、今も町の中心部に残っています。
但しかなりの蔵が今回の地震で被害を受け、昨年よりも規模を縮小して陶器市が開催されました。
ところどころ補修中の家々もあり、村田商人ヤマショウ記念館や乾坤一の大沼酒造店はやっておらず、昨年試飲を勧めていた美人の若女将にも会えずじまいでした。
一刻も早い復旧を願わずにはおれません。
村田の商人は、江戸時代から伊達藩が栽培を奨励した紅花や藍を仙南地方で買い集め、江戸や上方へ運ぶ商取引を行っていました。当時の栄華を伝える豪勢な店蔵が、今も町の中心部に残っています。
但しかなりの蔵が今回の地震で被害を受け、昨年よりも規模を縮小して陶器市が開催されました。
ところどころ補修中の家々もあり、村田商人ヤマショウ記念館や乾坤一の大沼酒造店はやっておらず、昨年試飲を勧めていた美人の若女将にも会えずじまいでした。
一刻も早い復旧を願わずにはおれません。
忘れ物
私が日参をしている太子堂はどなたかがいつもきれいにしていらっしゃいます。
そこの門の脇の石の垣根ところに草むしりの道具(何というのでしょう)がずっと置いてありました。
多分忘れ物でしょう。10日ぐらいそのままになっていたのですが、今日行ったらなくなっていました。
この写真は10月3日のものです。
境内には松の木が一本ありますが、これもまた本当に綺麗に手入れされているのです。
しかもプロ、或いはセミプロの人と思われます。
皆さんも弥平蕎麦屋の隣なので、たまにはお参りどうでしょう。
若い女性が深々と祈ってたのを目撃したことがあります。
もしかしたら、結構信心されている方がいるかもしれません。
そこの門の脇の石の垣根ところに草むしりの道具(何というのでしょう)がずっと置いてありました。
多分忘れ物でしょう。10日ぐらいそのままになっていたのですが、今日行ったらなくなっていました。
この写真は10月3日のものです。
境内には松の木が一本ありますが、これもまた本当に綺麗に手入れされているのです。
しかもプロ、或いはセミプロの人と思われます。
皆さんも弥平蕎麦屋の隣なので、たまにはお参りどうでしょう。
若い女性が深々と祈ってたのを目撃したことがあります。
もしかしたら、結構信心されている方がいるかもしれません。