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イザベラ・バードの通った道(山形県川西町小松編)その6

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 宮町に入り本間畳屋さんあたりから右手に伊達家原田氏の居城が見える。バードが通った時代はこのあたり民家はなく、良く見えるのだが、現在は民家が多く道路からは見えないので、実家の2階窓からのぞいてみる。写真の奥が大手南側(ライブスペースJamさん側)写真右が西で本丸(川西温泉『まどか』側、お稲荷さんのある後ろに御神木があり実家の2階窓からみるとゴジラの親子にみえる。写真左が東で二の丸に当たる。

 最後の城主、原田左馬介宗時は地域おこし協力隊のメンバーゆるきゃらで登場?してるようです。文禄2年(1593年)7月伊達家臣団の一人として朝鮮半島の釜山へ渡ったが、病で対馬にて没。二代後にあたる原田甲斐宗輔は仙台藩伊達家の家老となり、1970年のNHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』の主人公となってます。

 宮町を通ると原田城の東の守り殿原になる(地名は原田家臣がいたことに由来すると思います)この殿原には中学3年まで住んでいて、原田城は近くの同級生タッカ、タッケ、アッキ、自分ヤッツなどといつもの遊び場でした。母の甥っ子僕らが生まれた昭和30年頃には既に高校生でその頃から写真が好きで当時珍しく公園の記録写真があった。水害でほとんど写真がくっつき、破けて残っていない。

 置賜の昭和(写真アルバム)に原田城東側二の丸から殿原地区が見える写真があったので投稿。バード゙は殿原を通りあら町から坂の上地区に進みます。

イザベラ・バードの通った道(山形県川西町小松編)その5

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 バードは、宮町に入っていく。この宮町の通りに自分の現在の実家がある。昭和42年8月末に羽越を襲った大水害。宮町はくぼんでいる通りで低いため、小松の町中でも一番甚大な被害を受けた。

 当時小学5年、この時は隣の殿原というところに住んでいたが、本当に恐怖であった。この宮町から殿原そしてあら町、坂ノ上を通りその坂ノ上の西永十に宿泊している。因みに、坂の上は水が上がっていないのである。ゆるいが高くなっている。

 丸太写真館さんがこの水害のときの町の様子を写真に収めている。そこと同じ現在の写真。水害前まではほんとに茅葺屋根が多かったんだと感じる。バードが通過したころはまだ民家は少ないが、こんな萱屋根が連なるとおりだったと思いをはせる。この水害を境に高度成長ともあわせ萱屋根民家は一斉に姿を消した。右の茅葺民家は当時と同じのようだ。

イザベラ・バードの通った道(山形県川西町小松編)その4

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 諏訪神社参道を直進すると犬川の土手沿いの道に突き当たる。右に折れ、その先に諏訪橋が見える。諏訪橋を渡り先に進むと地蔵がある分岐の道がある。字名が町河原で昔は河原になっていた場所とのことである。今は諏訪橋から直進するバイパス道がメインになっているが昔は地蔵さんから入る道が旧道となる。くねくねと街中を進む道、いかにも旧道であることが伺える。今の諏訪橋、バードが通った頃の諏訪橋はもう少し下流側だったらしい。堰があり川幅が狭くなったところだそうだ。

 バードが通過した明治11年(1878年)に対し享和元年上小松村絵図(1801年)の地図が残っている。おそらくバードが通過したときも、この古地図と同じ町並みであったと考えられ、橋をわたった左側は家も無く河原、その右側は畑ガあり農家が一軒のみ見えた風景であった。

そば打ち体験

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 川西町産そば粉100%そば打ち体験2016年2月21日(日)があり参加した。

 半自給暮らし準備のじじ、そば打ちは必須事項、そばも植えてもちろんそばを打って食う。都会では家が汚くなるからと禁止されていた。大人1000円、子供300円幼児無料川西町農村環境改善センター

 神戸国際大の若者とじじ2人の3人で1テーブル交代で作業、神戸大の彼は見るからにおぼつかない手サポート役のおかあさん、見るからに心配そう。こっちも心配。笑いありの2時間かいもちにそば大盛りおしんこたっぷり。そば湯もおいしくおなかいっぱいになり大満足。打つのはかなり修行がいるが、切りはスムーズ(毎日母の介護で朝食担当、包丁裁きはうまくなった)だった。

2016.02.22:li-no:コメント(0):[気ままなつぶやき]

イザベラ・バードの通った道(山形県川西町小松編)その3

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 その2の若松観音から3,4分で諏訪神社鳥居の横にたどり着く。この諏訪神社は、奈良時代前期の和銅年中(712年)社殿が造営された置賜地方で最も古い神社であり、長井氏以降、伊達政宗や上杉景勝が社領の献上・寄進をした。また、参道の杉並木は樹齢300年を越え、その歴史を今に伝える。諏訪神社山門脇には「草木供養塔」「山神塔」「庚申塔」の石塔群がみられる。草木塔は別の場所にあったものらしいが現在のところに集められている。

 古い写真が無いか探したら、1982年正月実家に帰省して元旦初詣のときに鳥居を撮ったのがあるので比較してみた。すると、月夜燈、常夜燈は新しく献燈となっており、古いのは鳥居の後ろに移動しているようです。また石塔郡も今とずいぶん変わっているようだ。

 燈(あかり)が貴重な時代、月明かり、蛍のひかり、窓の雪とか、何とか明るさを取り入れ、自然光の元で勉学に励む様が歌われている。歌は歌としてその思いを考えずにいたが、今思えば、勉強机が与えられ、光は蛍光灯があり、十分なのにそれでも勉強はしなかった。昔の人がみたら、なんと罰当たりと嘆いているかもしれない。
 多くは『常夜燈』と刻まれ、『月夜燈』と刻まれたものは全国的に見て置賜地方のみに存在している。一説によると「上杉鷹山公は月夜には火を灯さず、月の出ない夜にのみ、照明として使用したのではないか」と言われている。そう置賜には”もったいない”質素、倹約、また自然に対する感謝気持はどこよりも強く、月夜燈や草木塔などにそれが現れている。バードはそこに気が付いていたかな?バードは鳥居の前の道を犬川にむけ直進する。