HOME > 記事一覧

小松豊年獅子踊り

  • 小松豊年獅子踊り
  • 小松豊年獅子踊り

故郷置賜地方では米沢の梓山獅子踊、綱木、川西町小松の豊年獅子踊り、飯豊町、長井市、小国町と獅子踊りが残っている、地元の小松豊年獅子しか観てなかったが、こんどは田舎にUターン他の獅子を観て回れる、そして人形作り、やりがいがあるなー、まずは実家のある小松の豊年獅子踊り、3匹分作成してみた。他にも早乙女や謡も作るからドンだけの数になるか。。それぞれ同じものはなく、興味深い。

2016.07.05:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

ざっこ釣り

  • ざっこ釣り

所属している相模原の油絵サークル、毎年5月連休に町田国際版画美術館でグループ展をやっている、今までは仕事が忙しくて年明けから切羽詰ってやっていたが、今年はセミリタイヤ、余裕があり、いち作品完成、タイトルは『ざっこつり』昔小学生時分、裏のダリア園や川でざっこ釣りしていた、思えば危険なとこへも平気で入ったりしていた、小川では(えんつかみ)といって素手で魚をふちに追い詰めたり穴に手を突っ込んでざっこ取りをしたものだ、今なら怖くて見えないところに素手で手は入れられないが、みょうに懐かしい。

2016.07.05:li-no:コメント(0):[気ままなつぶやき]

東根友人宅へ

  • 東根友人宅へ
  • 東根友人宅へ
  • 東根友人宅へ
  • 東根友人宅へ
  • 東根友人宅へ

同じ会社で、同じ相模原に住んで、同じ山形出身、スキーや山歩き友である友人の実家、東根市、帰省するとき方向が同じなのでスキーや夏休みに一緒に来ていた、8年前に記念にサクランボの木を植えたものは今はけっこうな木に成長した、先輩は会社の雇用延長を断り、60歳で自由人となり、冬は軽井沢でスキーのインストラクター、夏は東根で実家近くのさくらんぼ果樹園の手伝いで楽しく過ごしている。実家の両親はともになくなったが、実家の庭を整備しリンゴ、柿、ブルーベリー、サクランボ、ぶとうなど育て楽しんでいる、1年ぶりに東根友人宅に泊まり、朝食でサクランボジャムを頂いたが砂糖なしで煮詰めただけらしいが自然の甘味で驚く、自分も果樹のなる木がほしいな。

2016.06.27:li-no:コメント(0):[気ままなつぶやき]

『半夏の一つ咲き』

  • 『半夏の一つ咲き』
  • 『半夏の一つ咲き』
  • 『半夏の一つ咲き』
  • 『半夏の一つ咲き』

半夏(半夏生の略)の一つ咲き:半夏生(はんげしょう)は、七十二候の1つで、夏至から11日目、新暦では7月2日頃にあたる。そのころ、紅花が一輪だけぽっと咲くことを、昔の人はこのように表現した。今年は早いようで数日前から咲いたとの投稿があり、白鷹町十王地区に行って来ました、山形県や白鷹町の歴史に深くかかわりのある紅花を、地域の文化伝統などと連携を図りながら復活させよう、昔のように咲き誇る姿を見てもらおうと、平成6年に8名の有志で「白鷹紅の花を咲かせる会」が発足し、平成7年からは体験を中心とした「白鷹紅花まつり」をスタート、平成14年からは町あげての初夏のまつりとして、滝野交流館をメイン会場に開催しています。今年は7月9,10日開催

2016.06.27:li-no:コメント(0):[気ままなつぶやき]

越後瞽女唄鑑賞会

  • 越後瞽女唄鑑賞会
  • 越後瞽女唄鑑賞会
  • 越後瞽女唄鑑賞会

 川西町大字朴沢(ほうのさわ)の古民家「土礼味庵」 で越後瞽女唄鑑賞会があり拝聴しました。 昭和一桁生まれの私の母、米沢市万世で生まれ育った、その小学生時代、まだラジオも普及してない頃のこと、今日は瞽女が来るよーと家々に連絡が入ったそうです、野良仕事で忙しい母(私のばあちゃん)に走って伝えると、『今日は、はやぐきりあげんなねなー、はやぐまんま支度してけろー』と言われ連れて行ってもらえることに喜んで夕飯支度したそうです、私の母、小学3年で父が急死し母子家庭となる、ぼろは着せられないと私のばあちゃんは寝る間を惜しんで仕事したんだそうです、そんな後ろ姿を見て、私の母は小学生の高学年にもなると4つ下の双子の兄弟の面倒から夕飯の支度もしたんだそうです、母はまだ子供で難しい唄はわからなかったらしいが、行ったことのない各地の巡業話や漫談ものも芸として披露していたそうで、毎年その芸を待ちわびていたそうです。彼女たちが寄留するために必要な家は地元の名士が提供してました。これを「瞽女宿」と呼び、瞽女たちは宿に到着すると、荷物を置いて近在の家々を門付けして回り、夜になると宿に集まってきた村人たちを相手に段物や口説を心ゆくまで披露しました。祝儀には現金のほか、米や果物などの農産物、土地によっては真綿や和紙をもらうこともあったようです、お金がなくても代わりができたんですね、土礼味庵」も「瞽女宿」だったところ、ラジオや映画など他の娯楽が普及するのと逆比例で急速にその役目も色褪せて姿を消してしまった、昔は近親同士で結婚していたため、障害を持つ子も大く医療も発達してないし、福祉もなかったこともあり瞽女は生きる糧としても大切なことだったのでしょうね、感慨深いです。今年始めて拝聴したが力強く、ちょっと哀しいかな、土礼味庵瞽女唄も芸の道や民の文化を伝承するといった強い思いで,行っていることに感銘しました。

2016.06.26:li-no:コメント(0):[気ままなつぶやき]