9月25日の日曜久々の晴れ、幼馴染が置賜民俗学会で小国を廻るというので付いて行った、小国町は父の仕事場であり、小学の低学年頃はよく休みの日についていった、昭和30年代後半のころの話、小国に行くには険しい山道がたくさんあった、中でも宇津峠は、まだ九十九折の砂利道で対向車がくると崖のすれすれのところで待機して、車も性能が悪く、オーバーヒートしたりして、羽越水害のあった昭和42年以降道はよくなり、今では実家のある小松から30分程度でついてしまう、町も水害後に一変して昔の面影はまったくない、置賜の民族訪ねは、米沢女史短大の教授案内で、大宮子易両神社から産屋、越後米沢街道を廻る、越後米沢街道はバードの通ったところを走破しようとは思っていたがいまだ小松の中だけしか歩いていない、黒沢峠も初めてだった、ネットではよく見ていたが、ここはゆっくりじっくり徒歩で歩こうと考えている、興味が湧いたのが産屋、子易神社のすぐ近くにあり、現存するものは全国でも珍しいという、昭和43年が最後の使用と記載されていた、昔お産は家が穢れるというので、みな産屋で行いましたということです、都度村総出で組み立てて、産後7日間はかわるがわる部落の人が世話し、終了するとまたばらしていたそうです、今年87歳の母に聞くと大正時代はみなそうだったらしいが昭和天皇になり考えが異なり、母の世代、昭和一桁からはみな自宅お産となったと聞きました、昭和の43年まで使用されていたこの地区特別のような気がします。この子易神社は父が私たち3兄弟、そして私の子、私の孫まで欠かさずお参りしていたそうで、私は2年前3人目の孫が生まれたときに始めて父とともにお礼参りに来ました、境内に花子と太郎(昔のワープロソフトを思い出す)石があるが花子は河原から出てきた自然石、太郎は加工したもので何れも昭和の比較的新しいものです。
米沢市芳泉町(上杉武家屋敷)
上杉家が会津120万石から米沢30万石に移封になった際、城下に家臣全員を収容しきれなかったため、防衛の役割を与え下級武士を郊外に配置、荒地の開墾なども行わせた、この武士達は原方衆(はらがたしゅう)と呼ばれ、主は野を耕し、女達は機を織って生計をたてながらも馬を飼い武芸に励んだという、屋敷裏手は広い畑と果樹、前庭にはウコギの生垣がある典型的な原方衆の屋敷が今も残る、米沢市南部の地区芳泉町、寛文4年(1664)に15万石に減らされるものの明治維新まで上杉家は続きます、米沢市内は火災や都市開発で古い建物は残らなかったが、郊外であるが故、当時のままの通りと屋敷が残っています、残念ながら近代の民家にかわったり、空き家となったところも目立ってきてましたが、ウコギの生垣など歴史遺産として保存会ががんばっておられます。 庭の松も枯れてしまっているがなんかオブジェに見える。
赤湯温泉暴れ獅子
9月11日でしたが、勇壮な太鼓の響きとともに、通称「暴れ獅子」と呼ばれる獅子が街へ降り、市内を駆けめぐる、南陽市赤湯温泉の烏帽子山八幡宮例大祭及び赤湯温泉ふるさとまつりで暴れ獅子があるというので観てきました、暴れ獅子太鼓は、祭りを盛り上げるため昭和56年に創作されものだそうでわりと新しいようです、青い目の外人さんもいました、神社に向かって一礼して始まります、女性が多く、髪を上げ粋ですな・・・。暴れ獅子、幕の中央付近に獅子頭があり、幕の前後左右に数十人の若者がつき、互いに前と後ろで引き合い、引き勝った方向へ進むとのことです、石段の上にのぼり駆け下りるが中の獅子頭持ってる人こけたら大変だ、カメラもって道の端にいたがかなりのスピードで駆けて行きます。
諏訪神社(その2)
諏訪神社の例祭 毎年8月26日は商宮律(しゃぎり)
屋台の押し車、全国でも形、形式はさまざま。川西町小松地区西、南、北区の三つの地区のしゃぎりが町中を練り歩く、町中は道幅が狭く旧道はクランクが多いので、屋台さばきも見もの、化粧をした小学男子が笛の音と共に太鼓を響かせていく、帰り太鼓はテンポよく奏でる『タンタカタンタンタン、おらどっこい』てな感じで帰っていく。小松地区と中小松は旧村がことなり中小松も虫送りや神送りと同じようにしゃぎりもあったが、今はない。車切とも書かれているが、検索してみると・・1 狂言の囃子(はやし)で、めでたく、にぎやかな気分を表す笛の節。2 民俗芸能で、風流(ふりゅう)の行列などが練っていく途中、笛・太鼓・鉦(かね)などで奏する囃子。3 (「砂切」とも書く)歌舞伎囃子の一。太鼓・大太鼓・能管で一幕(デジタル大辞泉参照)とある、
昔は子供の晴れ舞台で親も子も憧れであるが、兄弟が多くいるとその家だけやるのは出来ず兄弟のなかでひとりだけというのが普通でした、我が実家は男3兄弟で兄だけが上がりました。 しゃぎりの木工人形ためしに作成してみた、屋台はまだだが何れ挑戦してみるつもり・・。