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鮎貝八幡宮獅子舞

  • 鮎貝八幡宮獅子舞
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8日が宵宮祭であったが雨で中止、9日に行くことにしたが、高畠町では小室等に太田裕美さん出演のイベント、長井市でも音楽,食、手作り作品のイベントがあり、どこに行こうか悩んでしまう、結局、幼馴染の歴史オタクと昼は鮎貝八幡神社獅子舞へ、午後は高畠にいって小室さん太田さんの懐かしい曲を聴いて一旦自宅に戻り、夕飯後また鮎貝の獅子を観にいく、この舞は、「七五三の舞」と呼ばれ、足の運び方が独特、7歩進んで5歩さがり、3歩で元の姿勢に戻る足の動きから、その名前が付いているが、その元祖といわれている、総代の方と話も出来てなかなかよかったです、鮎貝八幡宮の獅子頭には雄獅子と雌獅子があり、舞にでるのは真っ白なたて髪に、赤い耳の雄獅子です、神社境内には3対の獅子頭があり古いのは江戸時代のもの。重さ約二貫匁の7.5kgもあり七五三の舞を3回繰り返すには、十分な練習を積まないと舞えないそうです。今の獅子頭素材はヒノキと聞きました、そういえばここには下馬がなく聞いたが、昔からないんだそうです、理由は不明、それとどうも古太が先に行ったような?しかも太鼓とかかれた提灯があるなど、他とまた違うところを発見、これがチョットウレシイ。。鮎貝神社は城跡でもあり堀や遺構が多く残っておりまたじっくり観にいこう・・

2016.10.09:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

米沢藩葬儀場跡

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先々週の米沢ブラ散歩・笹野地区めぐりで通りかかった大壇原地内は、米沢藩主の葬儀が行われた場所で、第3代藩主・綱勝から第7代・宗房までの5名の藩主と1夫人の葬儀が行われました。現在はそばを植えた畑となっていいました、看板には万治元年(1658年)に第三代藩主・上杉綱勝夫人(媛姫)の死去に際し江戸から遺骸を林泉寺に移送して塵焼(火葬)した後に、大壇原で葬儀を営んだのが最初で、寛文4年(1664年)5月7日に三代・綱勝が江戸麻布邸で死去すると、廟所敷地内で塵焼を行い、笹野大壇原で葬儀が執行され、それが藩主葬送の慣例となりました。しかし、9代・上杉治憲(鷹山)の時代に葬法が土葬に転換すると葬儀は廟所で行うようになり、大壇葬場での葬儀はなくなります。江戸時代の藩主葬送の歴史を示す重要な存在とあるが、現存する遺構などは特になにも無いようです、

2016.10.09:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

直江石提(米沢市)

  • 直江石提(米沢市)
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秋晴れの日、松川(最上川)の上流・直江石堤を訪ねた。会津120万石から米沢30万石にに領地を削られ、上杉氏の本城となった米沢、大勢の家臣団が移り住みました、城下に収容しきれなかった下級武士は郊外の南原・東原に配置し、荒地の開拓・用水・治水、城下の用水となる御入水堰、猿尾堰、帯刀堰など開削・洪水から米沢城下を守るため松川に谷地河原堤防と蛇土手を築いたということです、藩士の奉仕にによる修復、特に、文化9年(1812)の工事は、延べ9,727人の藩士を動員した大工事と記録されてます。昭和61年に市の史跡に指定され、きれいに整備された公園になってます、何か機械で修復なのか工事してました、それにしても昔は機械も無くほとんど人力の大工事にただただ驚きます、それに藩士による奉仕とは、そこそこ不満もあったでしょうにね・・米沢を築いた先人の苦労は並大抵のものではないと痛感、治水の大切さを教えてくれた史跡でもあります・先人の皆様こうして「直江堤公園」として後世に名を残したことは救いでしょうか?。もう少し工事責任者とか下級藩士の奉仕者たちも名も書いてあげればいいとふと思ったじじの感想でした。 

2016.10.05:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

笹野観音(米沢)

  • 笹野観音(米沢)
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  • 笹野観音(米沢)
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現在の本堂は天保14年(1843)江戸時代の末期に再建、建築図面が当時の大工棟梁の子孫宅に大切に保存されているということで、完全な図面が現存しているのは珍しいようです、茅葺の屋根がいまも維持されていて重厚な趣を与えている、置賜特有の月夜燈もある、門前のところには笹野の里に伝わる笹野彫のお店があり、観音様参拝の縁起物として農民の手によって伝承されてます。本殿内に獅子頭がありました、例祭のときにまた訪れようと思います、

2016.09.30:li-no:コメント(0):[歴史探訪]

さいかち壇(米沢)

  • さいかち壇(米沢)
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米沢ブラ散歩、『さいかち檀と六面地蔵』という看板があり、いい雰囲気でサイカチの老木が茂ってたので写真撮り、さいかちは樹齢数百年というような巨木もあり木材は建築、家具、器具、薪炭用として用いられる、豆果は?莢(「さいかち」または「そうきょう」と読む)という生薬で利尿薬として用いるとある。またサポニンを多く含み古くから洗剤として使われ、莢(さや)を水につけて手で揉むと、ぬめりと泡が出るので、かつては石鹸の代わりに利用した。石鹸が簡単に手に入るようになっても、石鹸のアルカリで傷む絹の着物の洗濯などに利用されていたようである(煮出して使う)。棘も、腫れ物やリウマチに効くとされ、豆はおはじきなど子供の玩具としても利用されるとあります。利用価値のある木を植えているものです。 立派な六面地蔵があります、ここは三道が一箇所で交差し六道の基点となるところ、この地方で現存する唯一の辻と記載してある、六道に迷える人々を救う六体の地蔵尊を表し、この地を往来する旅人や住民の幸せを願って建立されたものとなってます安永の頃、南側には大きな安山岩を野積した土塁のある文殊堂もあった。

2016.09.29:li-no:コメント(0):[歴史探訪]