【転職成功物語14】決め手は行動力。苦労が報われたIさん。
酒田市内がすごい地吹雪で、これが初体験だった私は「これがうわさの庄内地吹雪ですね!」と見知らぬ人に話しかけたら、「こんなのは、酒田だって年に2~3日だぁ」と教えていただいた寒い日でした。
待合せ場所でお会いしたIさんはとても元気。
お若いのにきちんと転職に向き合って情報を集めていて、良い意味で「周りの人を利用するのが上手な人だなぁ~」という印象でした。
Iさんは、離婚されて、かつ小さなお子さん2人をしっかり守っていかなければならないお母さん。
現実は、お子さんの守っていくために自ずと「最低限の必要収入」「労働時間の制約」という妥協できない必須条件をクリアしなければなりません。
前職では、アットホームな会社で、総務・経理・営業・WEB構築・販促など幅広い業務をこなしてきたので、ある程度幅広く目指すターゲットは設定できるものの、やはり苦労することになりました。
結果的に、私どもからのご紹介は実りませんでしたが、持ち前の根気強い行動力で見事就職が叶いました。
しかも、すべての条件を満たしているので圧巻です!
Iさんおめでとう!頑張ってください!
以下原文そのまま掲載します。
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山形から離れて12年。就職・結婚・出産・離婚を経験し山形に帰ってきました。インターネット上では、転職サイトが多数ありこんなに求人があるなら山形へ帰っても大丈夫だろうと高をくくっていましたが甘かったです。関東近郊や都市部の求人が多く地元の求人はめったに見つかりません。そんな中、山形県の人材紹介会社キャリアクリエイト様のページに行き着き登録しました。その時の私は、「いつまでも親に迷惑かけれないしどこでもいいから早く就職して生活基盤を整えたい」と焦っていました。初対面の佐藤さまよりいただいた言葉は、最終的に定年まで尽くしたいと思える会社との出会いへ導いてくれました。
「求人のある会社に自分を合わせるのではなく、自分のやりたい仕事が出来る会社を探しましょう!絶対ありますから!大丈夫ですから!」
早く職に就き安定した生活を送ることが離婚して子供を養わなくてはならない私には必須でしたが、何年か後に無理がたたり再度就職活動をしなければならないのはそれこそ本末転倒ではないかと目の覚める思いでした。この時やっぱりやりたい仕事を探そうと心に決めました。
2月からハローワークとキャリアクリエイト様を基盤に就職活動を開始し第1希望の会社に2次面接で不採用となりショックを受け就職活動を自粛中。さらには大震災の到来。その後ハローワークをメインに就職活動するものの何十社も書類選考すら通らずの日々・・・。自分の人間性すら否定されているような気持ちになりました。佐藤様に紹介いただいた会社様も子供がいるがために条件が合わず不採用に。就職活動の苦しい時期でした。佐藤様には「また次頑張ろう!」と何度も励ましていただきました。
私は明るい性格が功をなしてか面接まで持ち込むことができればある程度自分を表現できると思っています。ですから書類選考すら通らないハローワークからの応募を減らし『会社社長へ直接履歴書を送る就職活動の方法』へと切り替え何とか面接の機会を頂こうと作戦を変更しました。
送付する履歴書、職務経歴書、お手紙、自己紹介文と佐藤様にアドバイスいただき週2通を目標に出し続けました。初めは、いきなり履歴書を送って非常識な人と思われないか、お叱りの電話が折り返しあるのではないかと不安でした。幸い面倒見のいい社長様達とお話しする機会を得て採用には至りませんでしたが大変良い経験になりました。
7月に入り久しぶりに佐藤様よりご連絡いただき「他社の転職サイトへ地元の求人が出ているから」と情報をいただき即応募しました。結局、役員面接で仕事内容や環境に折り合いがつかずご辞退させていただきました。これからどうしようかと考える日々・・・。
数日後、ご辞退した会社より再度ご連絡いただき、別の仕事でも人が欲しいから一度その部署の人達と軽い気持ちでいいので面談してみませんかというお誘いをいただきました。もちろん即OK!フットワーク軽いところをアピールしつつ再訪問しました。部署の人達は馬が合うというか年代も同じくらいで仕事内容や今後の展開がやりたかった職種と合致し盛り上がりました。最後には、出来れば来てほしいという嬉しいお言葉を頂戴しました。
12年ぶりにUターンして知り合いがいない中、頑張って人間関係つくりに励みました。採用にいたったのは運が良かっただけなのかもしれません。これから仕事していくうえでもいろいろな人と縁を持てるように持ち前の明るさでネットワークを広げていきたいと思っています。
キャリアクリエイトの佐藤様には本当に自分のことのように親身になっていただきました。感謝しかありません。新しい就職先では一生懸命働き、今度は求人を提供する側で少しでも恩返しができる機会があればと思います。本当にありがとうございました。
【セミナー開催報告】MG(戦略MQゲーム)と出会った時の想い
【セミナー開催報告】MG(戦略MQゲーム)との出会った時の想い
2007年まで銀行員だった私は、必須科目として『財務』を学ばざるを得ませんでした。
時には取引先から持ちかけられる経営相談、とりわけ財務面に関する相談に対応する必要性の下、得意・不得意に関係なく「通信教育」や「資格取得」の棘の道を歩いている数多くの銀行員を見てきました。
それでも当時は何の違和感も無く、先輩方も通った道だと励まし、時には立場上半強制的に啓発促進したりもしていました。
銀行を退職し、天職を模索し、ようやく日が差し込んでいる方向が見え出した2008年初旬にこの「MG(戦略MQゲーム)」に出会いました。
最初は訳もわからず、「忙しいゲームだな」と思ったのを覚えていますが・・・そのうちにまさに自分が企業活動をしていることに気づきました。
そして、その企業活動の結果である決算作業・・・自分でやった企業活動ですから「あの時にこんな意思決定をしたための損失だ」とか「あと何個売っていたら、黒字だった」とか。。。
材料が倉庫の中で待機している意味や製品が営業所の中で眠っている意味までもリアルに感じることができるようになってきます。
残念ながら私は銀行員時代その感覚が必要だと思ったことさえありませんでした。
出来上がった決算書と科目明細を眺めて、「在庫多すぎませんか?」とか、ひどい時には「この商品本当に営業所にあるんですか?」と資産査定という名の机上の粗捜し。
晩年は「テクニック」として踏み込んだアドバイスの「ようなもの」を出来るようにはなっていたかもしれませんが、MGを何回か体験するだけでかなり本質に近い経営者感覚で思考できるようになれたような気がします。
お客さんと共に・・を標榜する地方銀行員こそMGを学ぶべきだと強く感じました。
そんな出会いをしたMGですが、7月9日(土)に恒例のまみがさきMG第13回目が開催されました。
今回は初めて、山形県美容業生活衛生同業組合 山形ヘアファッションスクール様の会場をお借りして開催しました。
参加メンバーが前述の経営者感覚で、「こんな戦略を試してみよう!」と臨むゲームです。
一方で、ほぼ毎回初参加の方がいらっしゃいますので「互恵」感あふれる会場です。
初めての方がいればいる程、この常連さん方は明るく楽しくなるようです。
私事、今回も大変学びの多い経験になりました。
来月は8月6日(土)に同会場で開催の予定です。
皆さん、お気軽に!ご一緒に!
下記からどうぞ↓
MGって?参加するには?
【転職成功物語13】不思議な「縁」を感じました。
今回は転職が決定したのが昨日!という、季節柄暑々(違うか!)の物語です。
寄稿をお願いしたのが昨日の夕方。
快く引き受けて下さったAさんは、今回が3社目という転職歴ですが一社目からの心の動きを丁寧にまとめてくださいました。
歴代トップ級の超大作です!
自身に重ねるといろいろな気づきを得られます。
Aさん本当におめでとうございます。
この山形で、これからも末永く宜しくお願いします。
以下、原文のまま、お送りいただいたメールの内容からご紹介します。
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長文、駄文、申し訳ございません。今の気持ち、前職で希望退職に応募した時からの経緯を含めてまとめてみました。
思い返せば、山あり谷あり。思い悩んでばかりですが、それぞれの会社でとても多くのものを学んだんだなと、思えるようになりました。
山形を離れ、都会を十分経験したからこそわかる山形の良さ。
私が山形に戻るのは、やはり、今なのかもしれません。
これからは、仕事だけではなく、親戚づきあい、隣組などのご近所づきあいにも積極的に顔をだしつつ、人の輪を広げてゆきたいと思います。
引き続き、よろしくお願いいたします!
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最初の転職は2008年です。約8年勤めた企業を希望退職に応募する形で退社しました。山形県内に本社を置く企業の中では最大規模の歴史ある会社です。そのなかで、現場重視の経理を徹底的に叩き込まれました。会社全体の経営計画策定まで任せていただいたところで、新たな環境へ移ろうと決意しました。「開示業務など、より上位組織での経理業務に携わりたい。」これが退社の理由でした。1年間の親会社への出向経験が自分を動かしたのです。
ただ、今になって思うことは、この8年間で得た経験が、今の自分の支えになっているという事実です。先輩から時に厳しく、根気強く、指導していただいたことは、私の人生の宝となりました。2001年9月11日。あの日。深夜まで数字が固まらず、悶々としていた自分に付き合って、居残ってくれた先輩の温かい後ろ姿を忘れることは出来ません。私もそういう先輩でありたいし、あらねばならない。そう思います。先輩の厳しい指導の裏にある温かさが、今になってわかるようになりました。
転職とはなにか。恥ずかしながら、当時の私は、その進め方をまったく理解していませんでした。ただ、希望退職での退社であったことが救いでした。会社が契約した再就職支援会社からのサポートを受けることが出来たからです。時おりしもリーマンショックの只中。本当に道はあるのかと不安になりました。そんな中、担当のアドバイザー氏から、「転職を専門に支援するエージェント」の利用を薦められたのです。その一つが「キャリアクリエイト」さんでした。そのときは、残念ながら、お世話になることが出来ませんでした。しかし、このときの記憶が、後に大きな「縁」をわたしにもたらしてくれることになります。そのときは、まったく想像できませんでしたが。
山形での再就職をあきらめ、大手エージェントに求職登録し、全国に視野を広げました。遠くは北九州小倉。某製鉄メーカーの子会社の面接を受験。「明日面接に来てくれないか。」JTBに飛び込んで、急いでチケットを入手。面接に向かうため、生まれて初めて飛行機に乗りました。自分の世界が大きく広がってゆくのを肌で感じました。ゲーム機最大手のメーカーでは、東京青山の本社で最終面接にまで臨むことができました。不合格ではありましたが、偉大な先輩の足元にも及ばないと思っていた自分のスキルが、一定の評価をいただいた。大きな自信になりました。
約半年間の再就職活動を経て、最終的に2社から内定を得ました。そのうちの神奈川県にある会社に入社しました。決め手は、上場企業であったこと。勤務地が山形に似て、自然豊かな環境であったこと。そして、特急で1時間で都心にアクセスできたことです。
2年半お世話になりましたが、ともても得がたい経験をすることが出来ました。経営状態が極めて悪化している状況での入社。給与・賞与ともに大幅にカットされ、退社までそれは解除されませんでした。ですが、企業の最悪の状態と再生の過程を体感し、直接的にではないにしろ、再生への活動に携わることが出来たこと。これは今後の自分の宝になると思います。
そのなかで感じるようになった違和感。現場からかけ離れたところで、机上の数値から資料を作ってゆく。これでいいのだろうか。開示規則にしたがって資料をまとめてゆくことが、果たして経営に生かされるのだろうか。現場主義を叩き込まれた自分にとって、現場から乖離した経理は、「自分が目指すべきものではない」と感じたのです。と同時に、「現場に根ざした経理、投資家といった会社の外へ向けて情報を発信する」のではなく、「経営に生かすべく会社の中へ情報を発信する経理に、再び、腰を据えて携わってゆきたい。」そう思い立ち、再び、転職のための情報を収集するようになりました。
そのさなか、東日本大震災がおこりました。
事務所でパソコンに向かっていたとき、これまでに感じたことの無い大きな揺れに恐怖を覚えました。かつて東京の親会社へ出向中に遭遇した中越地震を思い出しました。すぐに停電になり、避難指示がでました。全社員が非難した後、即退社を命じられました。会社から15分ほどの自分の部屋に帰ってすぐTVをつけました。幸い電気は通じていました。次々と映し出される、現実とは思えない光景。記憶にある、実際に何度も訪れたことのある風景が、消え去っている。いったい何が起きたのか。実家と連絡が取れたのは夜遅くのことでした。家族の無事を確認しほっとしました。ただ、家族の無事な姿を「この目で見るまでは」安心できない。私に出来ることは、TVに映し出される映像を携帯で撮影し、山形の家族にメールすることだけでした。停電のなか、情報を入手する手段を絶たれた家族の助けになればとの思いです。このときの思い。山形から離れ、家族のために何も出来なかった悔しさが、私に、山形へのUターンを決意させました。震災から1週間後、羽田から庄内空港へ、庄内空港から高速バスでなんとか山形へたどり着き、家族の無事な姿を目にしたときは、心から安心しました。
それから、年度末の本決算。1か月以上休みなしという、毎年恒例の激務を終え、ゴールデンウイークの代休を取得し山形へ帰省したとき、私はスーツと革靴を持参していました。履歴書に添付する顔写真を撮影するためです。6月初旬のその日。再就職時にお世話になった近所の写真館へ予約の電話をしたところ、臨時休業とのこと。仕方なく、明日の予約をとりました。時間は昼過ぎ。せっかくスーツを着ているのだからと、頭に浮かんだのが再就職の折お世話になれなかった、「キャリアクリエイト」さんでした。「直接、山形の求人動向を聞いてみよう。」だめでもともとです。「電話しよう!」そうしたら、何と「すぐに来れますか?」その足で事務所に伺いました。代表の原田様より簡単なカウンセリングを受けた後、紹介されたのが「B社」です。その日のうちに書類を揃え、原田様に送付。翌日には佐藤様と、より詳しい面談を行いました。「こんなキャリアを持った方を探してたんです!」そんなお言葉を頂いたときは正直驚きました。先方様より待ったなしの催促を受けられているさなかとのこと。「とにかくこの流れに乗ろう!」と思い、進めていただくことに。その後は、こわいくらいスムーズに進展し、翌週には面接受験の機会を頂きました。面接では、社長様はじめ、皆様と深く意見を交換することが出来ました。B社の進む道と自分が歩んできた道が重なり、一つに重なってゆく姿が見えました。「ここで働きたい。」そう思える環境に巡り合うことができたこと。しかも、生まれ育った山形の地で。うれしかったです。
その日の夕方、東京へとんぼ返りし、翌日の出社に備えていた深夜2時、祖母が亡くなったとの連絡が山形の家族からありました。これは果たして偶然なのか。いや偶然ではない。祖母は私が山形に戻り、家を支える決心をしたことに安心したのではないか。そう思わずにいられません。翌日山形へ戻り、人生で初めて、喪主を務めることになりました。ここで感じた、親戚の皆さん、山形の暖かさ。忘れかけていた大切なものを、祖母は最期に私に思い出させてくれたのかもしれません。
翌週、内々定の連絡を頂きました。そして、7月6日。私の34回目の誕生日。採用決定のご連絡を頂きました。
Uターンを決意し、行動に移してからちょうど1ヶ月。これほど早く、ベストな結果を得ることができるとは想像できませんでした。これまでの人生で感じたことのない「縁」を感じます。ですが、やはり、「キャリアクリエイト」さんと出会えたこと。原田様、佐藤様、黒川様。皆様と出会えたことが一番の「縁」だとおもうのです。
一人でも多くの方が、素晴らしい「縁」に巡り合い、自然豊かで心が温かい人々でいっぱいの山形へUターンされることを、心より祈っております。
皆さま、このたびは、本当に、有難うございました!
これからもよろしくお願いいたします!
【転職あれこれ】面談でセールスされたのは初めて...Aさんの起業計画
山形にUターン希望のMさんの第一印象。
目ぢからがあり、いかにも度胸と行動力がありそうな営業のプロ。
そんなMさんは、学卒後、アラサーまで本気でミュージシャンを目指して、音楽活動に真剣に取り組んでいました。
しかし、残念ながらこの夢は断念。
その後、いくつかの道を通り、たどり着いたのがこれぞ天職では?と感じる営業職でした。
しかも、この営業している商品が、Mさんのコミュニケーション力を更にパワーアップさせるようなコミュニケーションツールを販売されているのです。
このツールの営業にかけては、ベンチャー企業といわれた時代から丸5年以上の経験。
今ではすっかりメジャーになり、今後は医療や福祉分野において、更なる機能発揮を期待されている分野です。
「Mさん、それではザックリ現在の業務を説明していただけますか?」といういつものステップに入った途端、ドサッと机の上に出てきたのはこの自慢のコミュニケーションツールのプロモーション資料。
素人にもわかりやすく、しかも簡潔にしつこくない流れるような説明のあと、思わず「すばらしい商品ですね!」とその気にさせられてしまいました。
Mさんは、続けて言います。
「このコミュニケーションツールを震災復興に役立てたいんです。」
説明を聞くとこれもなるほど....。
立て続けに出てきた言葉。
「申し訳ありません。実は転職相談ではないんです。起業相談なんです。山形の市場、東北の市場を体感されているプロの意見を伺いたかったんです。」
実はMさん。週7日間(全部)全国を飛び回って営業活動されています。そんな中でUターンを考え出した近年、意識的に東北地区の開拓を優先させてきたとのこと。
もちろん、お世話になった現在の会社に後ろ足で砂を・・・ということではなく、東北支社(のれん分け)を正式に会社に提案しているとか。
第二印象。
頭の切れる若手社長。。に見えてきているのに気がつきました。
いろいろな形で絡んでくれる皆さんから、新たな絡まれ方を教わり「これも心地よし」と感じた面談でした。
Mさん、将来なにか絡めるかもしれませんね!
文:佐藤広一
【転職あれこれ】まさに、縁とタイミング! <続編>
「まさに、縁とタイミング」の続編です。
前回記事の流れはこうです。
ずーーっと以前からいただいていたA社の求人案件がありました。
↓
ずーーっとお待たせしていた求人ご担当の役員様の転勤が決まりご挨拶の電話をいただいた。
「もう、そんなに待てなくなりました!」
↓
その翌日、ずーーっと探していたのに見つからなかった、「ニーズにぴったり」のUターン希望者Bさんから求職登録をいただいた。
↓
早速面談し、「これはやはりぴったり!」と判断、A社に写真付書類で紹介差し上げたのが、頂いた電話から実質3営業日でした。
↓
これだけずーーっと探していたし、実際に面談もさせていただいていたのに巡り合えなかった「ぴったりの方」に、ご担当役員の転勤連絡直後に巡り合えた!「縁」てすごい!
という流れでした。
あれから2週間。さてさて、その後どうなったでしょうか?
Uターン希望者のBさん。内定おめでとうございます!
Bさんは、現在東京で就業中ですので、面接の段取りはさすがに「では明日山形で面接しましょうか!」というわけにはいきませんでした。
仕事の都合をつけてもらい、平日に面接に臨んでもらいました。
それでも、実質2週間!
私も面接に同席させていただきましたが、社長様以下、総勢5名の役員・マネージャー様をそろえて頂きA社様も一方向からの面接にならぬよう、そして意思決定のスピードもMAXで行えるような態勢を完全に仕上げて、面接機会をご準備いただきました。
このことは、企業側として「本当に欲しい人材に巡り合えた時」を想定すると、企業側の採用姿勢を求職者にアピールし、求職者の動機付けを喚起し、ひいては意思決定に結び付けていくための最良の方法の一つであることを実感しました。
本日、Bさんは意思決定をしました。めでたく8月には念願のUターンが叶いそうです!
今回感じた、大きな縁の流れ。。。。これに「乗ろう」と意思決定したBさんの文章をご紹介します。
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○○様からの内々定のご連絡、有難うございます。
なんというか、感謝の気持ちで胸があふれております。
内々定、謹んでお受けしたく存じます。
面接で感じた、皆さまの温かさ。
佐藤様のお言葉通りの温かさに正直驚きました。
そして、面接の最後に、○○社長様からいただいたお言葉。
私の頭の中ではっきりしなかった部分がすっと晴れわたり、今、そしてこれからの○○様の進むべき姿と、○○様で自分がなすべきことがはっきりとイメージできたのです。
~~ 中略(久々に帰省した際の心を動かされた出来事が記載されています。)~~
山形の温かさをこれほど感じたことはありません。
と同時に、自分は山形で、家を守ってゆくべきだと改めて強く思った次第です。
震災以降、心の中で山形へのUターンを考えてはおりました。
しかし、6月3日にキャリアクリエイト様を訪問し、その日に○○様をご紹介いただき、6月○日には面接受験のチャンスをいただき、本日内々定というお答えをいただいた。
信じがたいことですが、この「大きな流れ」に乗るべきと思うのです。
長文失礼いたしました。
以上が私の率直な気持ち、考えであります。
皆様によろしくお伝え願います。
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また一人、山形に誠実で元気な若者が帰ってくることになりました!
末永く、宜しくお願いします。
文:佐藤広一