先日、ご紹介したナイチンゲールが150年以上も前に書いた著書「看護覚え書」には、私が読んでも、非常にためになる内容がビッシリ詰まっており、看護関係者のみならず全ての国民に読んでもらいたいと思うくらいの本です。
なぜなら、病気は本人はもとより、誰にでもおきることであり、子どもや伴侶・両親や友人が病気した場合の適切な看護に必要な最低限の知識は誰もが持つ必要があり、間違った知識によって、病が悪化したり、場合によっては死においやってしまうようなことは決してあってはならないと思うのです。
看護覚え書には、副題があります。
-看護であること・看護でないこと-
本には、看護の原理原則ともいえる内容が、こと細かに紹介されていますが、病院の看護師であれ、家庭で看護する者であれ、看護を構成する基本的な要素がほとんど理解されておらず間違った知識によって、看護でないことをしていると書いています。そして、病気にかからないような健康上の知識や病気から快復できるような状態に身体を整えるための看護の知識は、誰もが身につけておくべきであると説いているのです。
私が、偉大なるナイチンゲールの著書について、紹介するのは、おこがましい感もございますが、看護覚え書の中で、特に印象に残った部分を少しづつ紹介させていただきますので、よろしければお付き合い下さい。
14P 「病気につきものと思われている苦痛の原因は、必ずしもその病気によるものではない」から
病気というものを注意して見つめているとき、それが個人の家であっても公共の病院であっても、経験豊かな観察者を強くひきつけることがある。
それは、病気につきもので避けられないと一般に考えられている症状や苦痛などが、実はその病気の症状などではなく、全く別のことからくる症状ーすなわち、新鮮な空気とか陽光・暖かさ・静けさ・清潔さ・食事の規則正しさと食事の世話などのうちのどれか、または全部が欠けていることから生じる症状であることが非常に多いということである。
そしてこれは、病院看護においても家庭看護においても、まったく同様によく見られることである。
自然がつくり出し、われわれが病気と呼んでいるこの回復過程は、こういったことひとつひとつまたは、全部に対する知識の不足か、あるいは注意が足りないために妨害されてきて、その結果、痛みや苦しみやあるいは回復過程そのものの中断が起こるのである。
患者が冷え込んでいるとか、熱があるとか、ぐったりしているとか、食後に吐き気があるとか、じゅくそうができるとかするのは、大抵の場合、病気のせいではなくて看護のせいなのである。
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