まったくこの雪には参ってしまう。
明日の鍋祭りの準備、午前10時に公民館に向かったのだが、降りしきる雪で前が見えない。
光の加減で、真っ白な雪世界の凹凸が見えなくて、道路の脇の雪の壁も見えない。
道路がどこにあるのかよく分らんのである。
吹雪ならばそう言う事はよくあるが、降る雪でこういうのはなかなか珍しい。
昨日一昨日の大雪警報などでは、各地でこんな状況だったろうと思うが、その頃の雪は大した事がなく、大雪のピークを越えたという天気予報以降よく降るのだ。
ブドウ園はどうなっちまったろうか。
今日一日、鍋祭り準備でブドウ園へは行ってない。
一日モサモサ降る雪で、雪を下ろしたばかりの倉庫や小屋にまたシコタマたまってしまった。
明日朝、祭り前、早く起きて雪下ろしをしなきゃなるまい。
ニワトリの小屋などは、小屋の高さ(1.8m)と雪の高さが同じくらいになって、バランスがへんちくりんに見えて可笑しいくらいだ。
ポチの小屋は埋まってしまった。
全く困る。数年前の豪雪以上に降ってるんじゃないのだろうか。
最近の気候は、雨にしても雪にしても、そして晴れ・干ばつにしても激しい。
極端である。
降れば降りっぱなし。
晴れれば晴れっぱなし。
丁度良いというような優しい感じが無いのである。
久しぶりに本を開いた。
毎日読まなければ眠れなかったのだが、もう一年近く読んでない。
開高健「食後の花束」
もう、10回以上読んだ本である。
久しぶりに開いたページには、想いの他小さな字が、端から端までびっちりと並んでいる。
読みなれた本にビビってしまった。
一年も本から遠ざかるとこのような塩梅なのだろうか。
おまけであるが、幾度も読み返した本なのに、内容をさっぱり覚えていないのがよろしい。
なかなか新鮮であるので、新しい本を購入する手間が省けて経済的なのである。
しかし、心配でもある。
脳みそが心配なのである。
何でもかんでも忘れちゃいそうな感じで、いつか、今朝めし食ったっけ?夕飯食べたばかりなのに、夕飯喰わせてくれ~、などとホザキそうではあるまいか。
しかしまあ、難しい漢字に小さな文字。難解な言葉の言い回しの開高先生の著であるが、あんな物書きをしてみたいものである。
表現が素敵だ。
物の見方がひねくれていて、それでいて正統でもあり斬新でもある。奇人でもあり変人でもある。
おまけに大江健三郎氏と友人であった訳だが、両氏とも常人には意味不明なような表現があり、あれはあれでノーベル賞貰うほどの脳みそなので、オイラみたいなミソ桶の底に残ったみたいな干からびた脳みそでは理解できないのであるなぁ、などとせんべい布団にもぐりこみ、霞んだ文字に目を細め、老眼の進行と、本の内容の喪失とミソ桶の底の干からびた脳みその関係について、あるいはもしや若年性アルツハイマーと関係があるんではなかろうかと推測と憶測と想像をこねる訳である。
僅か数分で決まるのだ。
脳が活動を停止したがって、枕元の電灯を消し、意識が夢の世界に到達するのに1分とかからない。
さて、今夜も雪の心配はつきぬのだが、開高健のページを開こうか。
あと10分後には夢の世界だろうが・・・・