アルコールに犯された脳で書いたので、誤字が多く、訂正しちゃいました。
優れた道化は
愚かさの隠れ蓑の下から
相手に鋭い批判の矢を射かける
井上ひさしが言っていた言葉であるが、
俺の昨年の日記、或いは手記のようなものに記してあった。
そうありたいのだが、道化で居る事。
あるいは道化である事が、まず、難しいのかもしない。
道化でさえあれば、それも可能だが、道化になれない。
黒子にもなれなくて、セリフのない村人・・5番、というところだろうか。
まあ、それでいいのだが、最近はその村人であるのも嫌になってきた。
村のお代官様や庄屋様、あるいは越後屋だか駿河屋だか、そういった手合いが台頭し、村の5番などの出る幕もなく。
おまけに、黄門さまの存在もない。
悪代官と、越後屋などの活躍跋扈が目に余るのだが、それもどうでも良くなってきた。
より仙人に向かおうか。
娑婆との接触を断ち、或いは俺の意志で、俺の想いの通りに娑婆と接しようか。
射る矢は炎の如く飛び立つのだが、
矢先、着弾は氷の大地。
まるで管内閣、今の内閣という塩梅で、
そこには文学も、イデオロギーも、知性の微塵の欠片もなく、
ヒトデがサンゴを喰い朽ち果てるかの如き植生があるだけのように感じる。
国家も、地方も、
優れた道化に、誰がなろうか。
誰が優れた道化なのだろうか。
まさか、俺じゃぁなかろうが。
ひさし先生は、何人称をもって優れた道化と言葉を綴ったのか。
優れた道化の誕生を待つのが俺たちの世代なのか・・・・、
優れた道化を演じるのが、私たちなのだろうか。
いずれ、39歳の細野君にはその役は似合わないなぁ。