混沌とした泥沼のような時代であっても、
その未来といえば、いつの時代も「あかるい」とか、「きっと明るい」とか、
そういったものである、そう願うというものであった。
今朝の新聞の見出しには、
「福島県民30年健康調査」とある。
福島県民の被爆健康調査を継続的に行う。と言う事である。
日本と言うこの国にして、被爆の実態を調査するは、これで3度目であろう。
原爆・原爆・原発・・・・。
水俣病であっても、足尾銅山であっても、あるいは神通川であっても、
大企業の関わる健康被害調査は遅々として、その判断も歪曲されているという過去の事実がある。
罪もなく、知識を持たない善良な市民は、常に被害者であり、加害者は見えてこない。
いや、見えているにも関わらず、その黒幕はどこまでも灰色という政治的なベールに覆われ、被害者の多くが没して尚、やっとの事で片鱗を認めるという状況が続く。
未来とは希望の事である。
そして未来とは、子供やその孫その玄孫のその先、
千代に八千代に、さざれ石が岩となり、苔の生すまで先の事なのである。
今、僕たちが未来を語れば、
それは暗いものである。
福島の人たちが語れば、尚一層暗いのだろう。
原発は、未来を照らす明かりではないのである。
原子力は、常に人の命を奪ってきた。
いや、細胞という微細なものに対しての攻撃力は、癌細胞の破壊などにも使用され、人類の一部人間(お金のある先進国家においてのみ)の延命にも関わっていようが、殺戮された、されようとしている人数に併せれば、その功罪は如何なものであろうか。
人類が扱うべき「火」ではないのである。
宇宙区間・・・宇宙ステーションでは数日のうちに、地上で浴びる年間放射線を被ばくする。
大気が無いからである。
宇宙空間には生命の存続が不能なほど強い放射線が存在する。
大気から守られなければ、水の星、生命の星である地球に、生命の存続はない。
大気から、地球から守られた生命体が。
大気の内に放射能をばらまくなど、
狭い空間で、自分で屁をたれ、その匂いに苦しむに等しい。
いや、自分の放出した毒にやられる何かしらの生物であろう。
月の人さまの言を借りれば
狂気の時代 である。
未来と言うものが、狂気に満ちたものの可能性があれば、
僕たちはそれを正さなければならない。
明るい未来のために。