生を受け入れるということは
また、死を受け入れるという事でもある
と、思う。
まあ、普通の生活の中で、生は喜び
死は、忌嫌うものとなっているようだが。
生から死まで その間に量りきれないほどの事柄がつまってはいるのだが。
それを、俺たちは 生きているからこそ考え 悩むのではあるまいか。
簡素である。
「なぜ生まれ、生きているのか?」
などと、多感な青年時代に深刻に悩み、死を見つめた事もある。
が、悟った!? のである
生まれたから 仕方あるまい 死ぬまで生きるだけである。
その内容は個々に万別で、何かに類する必要もないし、類してもよいのである。
生を受けた場所や国家にある、習慣や法に従う事は、また必然であろうし、その習慣や、法を都度変化させるべく生きることも可能ではある。そこでどう生きようと、本人次第であるのだと。
が、生まれたから 死ぬまで生きるだけである。と思った瞬間から
神も宗教も国家も超越してしまった気がした。
そして、強くなった。
生きるということを、重く感じ、自分の行動に責任をもち、他をいたわれる様になった。
逝く友に、今生の共に生きた時を感謝し、寂しさに涙こそすれ、悲しみはない。
生まれる我が子に、生きるという大役を負わす原因となった事に恐れ慄き、3日4日身をくらませた事もあった。
死にに山に登る奴はいない。
遭難。 しかし、いつ死が訪れようとそれは必然であり、責められる事ではない。 帰還した遭難者に群がるマスコミが、「何が原因だ?無理はなかったのか?責任を誰が?」とやっているが、そんな事はどうでもいいのである。
登り、死ぬ目に遭い、仲間を失った人間が一番分かっているのであるから。
生きるとは、何かの命を喰らう事である。
いつも、私たちは命を喰っているのである。
何がよくて、何がいけないのか・・・そんな事はどっちでもいい。
真実を見て生きていれば 見えるのであるから。
そして、その真実を見抜く心を、共に生きる事の出来る時間を授かったよい仲間と共に養うのだ。
山で、熊を追う。
間違えれば、わが命 失う事もあろう。
銃という文明の利器をもってはいるが。
ズルはしない。
堂々と、奴と向かい合うのだ。
遠くに 真っ黒な 奴らを望んだとき。
友達になりたい とも 思う。
可愛い仕草に、撃つこともないだろう とも思う。
が、
大切な命を 教えてくれる。
神を、なくした私に 神を見せてくれる気がしてならない。