朝の暖かさは、低い雲に吸いとられ
午後からは寒さだけがのこったみたい。雪が舞っている。
”無邪気なナショナリズム” にお声を頂きました。
おもしろい表現ですよね。
こんな表現方法があったのか、やはり彼氏は天才だったか・・・。
やや辛辣に、手厳しくものを申せば、おのが手にかかり生み出しえる品々に、
ブランドであるとか○○セレクションとか自分で称号を与えることは、無邪気どころか、おぞましさを感じ得る。
ならば、ナショナルとは如何なものであるのか。
美しい山 湖 渓谷 は、求められずして美しく人々の心を潤し、
豊満で深淵で人を惹きつけ痺れさせるブランデーは、それを醸す人に酒の精がほほ笑んだから。偶然の産物であるそれを、永劫と後世に伝える使命と手段とその職人、そしてそれを醸す地盤に与えられる名誉。
大方のその道の蘊蓄人と大多数の人間が受け入れ納得できるもの。
その時代に・・・と付け加えなけれなならないだろう・・・って考えるのである。
そうなのである、いま、麦チョコ女史は言う。
「外部からの風が吹いて初めて
NationalismやIdentityといった他者と対比でき誇れる物に昇格出来るのではないでしょうか」
ナショナリズムとは、より広大なモノの対比 非ローカルなのである。
いくら世界随一とはいえ、それを自分で言ってしまってはナショナリズムではなくなってしまうのではあるまいか。
己のおちょぼ口が、それを言ったら 超ローカルな南極の果のペンギンである。
まさしくshidareo氏の言う・・・多分、「無邪気なナショナリズム」って、幼い自我の延長線上に存在するっ、という感じかも知れませんよね。・・・・
と同感である。
これを書く、変ちくりんな農家のオヤジが求める たべものをつくる とは、土や野菜やお米やらブドウをつくることではなく、・・・人の優しさ・・・なのである。ユニバーサルなのである。
人はすべて、旅人たりうる。
物理的にすべて旅人なのであろう。
心が旅立てば 移動は必要ない。時の旅人は、ビックバン以来、星と星との距離が離れ続けるのと同じだけいやがおうにも旅を続ける。
わたしは ここに います
(ここで のうか やってます)
これだけの基本があれば、私はどこにいようとも
地球のある一点に帰ってこれるのだ。
そして、どこにでも自由に真実を発信できるのだ。
なんか、訳わかんなくなってきたりして(・・;)