永遠の孤独
昨日のサル駆除の話は、まるで漫才か御伽話であったのだが、この話はまたの機会にしよう。 今朝は、霜で白い中を犬コロと散歩。 霜 霜 滴る露 枝垂れる 青い葉のカキと赤い葉のカキ 霜枯れるアザミ カキ 迫る霧 霜が降りたポチ ASH そこに存在し、そこにあるべくしてあるものたちは美しい。 一瞬を切り取り、記憶に頼らない一瞬の保存。 写真、カメラとは偉大な発明だ。 早朝には、地鳴りと共に地震がきた。 それもまた、人間が受け入れなければならない自然の定め。 毎日のラジオや新聞のニュースには(テレビは見てない)耳を疑う話が多い。 御伽話にもならぬ、責任のなすり合いの様な醜い話の連続。 裸の王様の様な政治家と官僚と経済界の噺。 アメリカでのデモ騒ぎは、1%の富裕層・世を牛耳る者たちへの不満の表明。 さあ、この国はどうなのだろう。 当事者不在、国民不在の国家。 孤独を感じる。 ここに、赫々云々の事柄を上げて、一つづつ感想や、その無策さや、その不誠実さや、その無責任さや、エトセトラ et cetera・・・・・ したところで、庶民の囁き、不満は解消されたりしない。 いや、多くの人々の囁きと不満であろうものは、この国ではないものとして扱われるのだろうか。 自国の原発の尻拭いも出来ぬうち、外国に原発を輸出という首相は一体どういう人なのだろうか。 除染の担当は・・・・、補償のこと・・・・・、あ~あぁ~~~~ 細やかに暮らす人々を守れん国なんてある訳か??? どこか、政情不安か独裁のお国にでも住んでいる気分にならなくもないのである。 この国にあって、国民は国家に対し孤独を感じるのである。 人々は、人々毎に手を繋ぎ、人々の時間を過ごすのであるが、人々から遊離した公務員・議員・金持ち・・・と言うところの存在は、手を繋ぐという細やかな責任さえ負う能力に欠け、対面的、利己的な事のみ法の行使者となる。 議員や公務員にあっては、給料、身分、その他の保証は法で定められている訳である。 本来、国民の為にある法であり、公務員は国民を守り使役する事に責務があろうものを、どう言う訳か彼らは彼らの給料がその法により保護される。その法を死守すべく法と国家の為の労働者となっている訳だ。 国民の給料や、住まい、財産は、法により保護されておらず、震災後の原発事故やら、国民年金の問題やらで露呈している訳だ。 今は、日本国民と言う孤独を感じなくもないのだが、 世界には更に命の危機が間近にある人々も多く、私たちは彼らに何らかの手を差し伸べる事によって、日本にある事の孤独感から逃れようとしている一面もある。 悪い事ではない。美しい事ではあるが、 それを行い、自分のおかれた立場を考えることを一瞬でも忘れなければならないような国家行政であっては、民衆の代表とし、国家を監視すべく議員を選出する、代表制民主主義国家としては、あまりにもお粗末と言うものである。 それはまた、小さな地域の小さな選挙に対し、民衆の言葉が反映されないシステムに同じである。 田舎の近所のオヤジが、地方議員になったところで、ふんぞり返り威張るくらいなもので、弱者の言葉を無視し、生活者の言葉を無視し、唯我独尊であり得る事が可能であるという、非緊張感と弛緩が許される民衆意識がその根源にあるのかないのか。 いずれ、地方から国家議員まで、命や財産を襲われる危険がない法治国家であることの弊害であるかもしれない。 言論の自由に対する暴力は禁断だが、言論の自由と、唯我独尊の議員活動が同一であるという事は、誰も議論はしないが同一の事とはある意味似て非であろう。 はぁ~、面倒くさい事を書いてしまった。
2011.10.28