クマを賜る山の中
朝日新聞の天声人語に、宇宙から還った飛行士たちは総じて常ににこやかで、そして地球の美しさや有りがたさを語る。 これは、人格も去る事ながら、宇宙から持ち帰った心であろうか。 と、記されていた。 狭い宇宙ステーションの中で167日を過ごした古川飛行士。 その彼をはじめ、殆どの飛行士が、地球の空気や水、自然のありがたさを語る。 帰ってきてから、農業分野に没頭する飛行士もある。 24時間電気が落ちず、明るい国。日本。 その国にいて、何時しか地球や自然の本当の美しさ、優しさ、ありがたさ、そして厳しさを全て忘れ去ってしまっているような塩梅に、心地悪さを感じる。 人々は、まるで地球が我らの当然の持ち物のように振る舞うのである。 別の紙面に目をやれば、年金の減額、消費税増額、TPP、原発や廃棄物を含めた放射能の混沌。次の選挙の事しか考えてないみたいな政治家・・・・ 日本に明るい未来を見出す現実的な要素は少ない。 しかし、である。 夜は暗く、雪も降り、稼ぎが悪い我が家にあっては、それはそれは、日々、大自然の恩恵を受け、共にあるという実感の中に家族が暮らす。 経済的社会の繋がり以上に、生物としての自然との繋がりが深い程、将来的に平穏に暮らせそうな気がするのである。 些少のお金は必要だし、電気や燃料だって必要である。 しかし、そういったもので直接得られる以上のものが、私たちの周りに存在し、それと共に暮らす事によって、満足感や幸せ感、そして未来への安心感を得るのである。 山から与えられる食物であったり、ストーブの中で優しく燃える薪であったり・・・。 それらを得る事は楽ではないが、途絶えずに続く道を見いだせるのである。 自然破壊や、経済一辺倒の夜中まで煌々と明るい地域の中からは、そんな暗くとも確実に存在する道は探す術もなかろう。 登山道を踏み外し、道に迷い路頭に暮れるようなものだ。 遭難である。 しかし、自然はそんな過酷なだけではない。けもの道だって立派な道だ。 それを利用でる術が必要だが、その道を発見する心が必要な訳である。 クマを賜る 11月15日から1日だけ休んだだけで、毎日山へ行っている。 昨日、23日は午前中家の仕事をした。 仲間のお誘いで午後から山に入ったが、もうヘトヘトである。 今日は、どうやら荒れそうな予報なので、本格的に休むのである。 足など身体のパーツは使えそうだが、精神的というか脳みそが草臥れている。 毎晩夜中にクマの夢を見て、何度も跳ね起き、寝不足なのである。 そして、酒の飲み過ぎなどあるのかどうなのか、腰が痛い。 やっとゆっくり休めそうだ。 22日の事。 何時もの通り、ミーあんちゃんと二人で出かけたのである。 朝は雪が降っていて、山は真っ白である。 山は2~30㎝の積雪があった。 午前10時を過ぎるころから、天気が回復したので山に上がる。 いつもの通り、まあ、クマを眺める事が出来ればいいなぁ~、という程度の優しい心持で山に向かうのである。 風の当たらない陽だまりでのんびりご飯を食べるのが、これがたまらないのである。 そして、急峻な崖や壮大な山々に抱かれ、飛行機の音と風の音、鳥の声、木から雪が落ちる音しかしない。 飛行機が飛ばなければ、音は原始の音と言う事だ。 それでも、幸せを感じる。 下界の全てを忘れ、身体そのものが自然に対するレーダーの様に心地よい緊張感の中にある。 いくら疲れていても、体調が悪くても、山に来ると元気になる。 暫くののち、場所を代え、山を見張る。 途中、クマの足跡を発見。足跡は追わず、見当で先回りする。 ミーあんちゃんは、最近膝の調子が悪いので、見晴らしのいい場所に残し、俺一人で二山ほど先まで偵察に行くのであるが、何もない。 午後3時、冬の陽が傾くのは早いので、のんびり下ろうか。 保育園児が道草喰うみたいにのんびりと山を下るのである。 ミーあんちゃんも、俺も、山から降りるのが名残惜しくて仕方がないのだ。 歩きはじめて数分。 kuma仙人レーダーが「あにき」発見。 距離200。 最近取り逃がしてばかりなので、業を煮やし、エポキシ接着剤で無理やりくっつけたスコープを覗く。 20番散弾銃に1発弾(大型動物専用弾・スラッグ弾)を詰める。 ミーあんちゃんは30-06ライフルである。 距離があるので、俺の銃では限界値越えである。 ライフルは十分な距離であるが、このところ当たっていないミーあんちゃんは、「お前撃て・・・」 という。・・・・・え~無理な距離だよ~ でも、まあいいか、写真撮ったし、見れたし、逃げてもまた出会えるし・・・・。 バ~ン・・・・・・・・・・え!(・_・;) 転がった・・・・・ 血を流しながら崖を150メートルも転がり落ち、沢の中に入って見えなくなった。 落ちる姿は全くグッタリであったのだが・・・・ まさか!?散弾銃で???? 痛くして、逃げるかもワカンネ。生きてるかもワカンネ・・・・・ しかし、30分かけて現場に到達すると、絶命していた。 脇の下に弾丸は入り、反対の脇の下から出ていた。 解体して分かったのだが、弾丸は心臓を貫いていた。 脂肪分が薄く、硬い骨がない部分なので、距離の割に貧弱な銃弾であったが致命的であったのだ。 仲間を電話や無線で呼びつけ、引っ張り出しである。 100キロのクマ。 重い。でかい。まるまると太っている。 お神酒を捧げ、山々に頭を垂れ、この辺で言う「だみだし」⇒「荼毘出し」 まあ、クマに感謝し、その命を絶った事、魂が浄土へ行けるように葬式を行う訳なのである。 もちろんそこには、クマの肉が入った汁が供され、関係者が揃う。 今年はクマが多い。 相当数目撃している。 猟仲間も熱心に山へ通う。 それなりの数量は獲れるだろう。 しかし、俺たちの仲間では、ある頭数を得たら、山を止めようと話している。 そうして、未来に向け、ずっとこうした猟が出来る事を願っているのである。 欲に負け、禁を犯すものなど皆無である。 それを行えば、このクマ猟の未来が暗い事を知っているからである。 細やかながら、経済には程遠い行為だが、 それでさえ欲などなく未来を守るという質素と気高さにあふれている。 数日ぶりのブログアップである。
2011.11.24