近所の本宮キャンプ場にテントを設置して、6日までの3泊4日。
おいらは、日中にブドウ園の剪定の仕事をしながら、夜はテントで宴会とおしゃべりを楽しんだ。
此の処の生活は、自宅での晩酌に始まり、各種集まりなどでの過飲過食もあり、ややゲンナリというか、グッタリに近いものがある。
それらは、嬉々溌剌と頂ける飲食でもなく、むしろ不毛の時間の経過を飲み下すという苦痛にも似ていた。
キャンプ初日には、もう飲めない、もう食えないと言うほどに身体は疲れていたかもしれない。
しかし、気の合った仲間と、自然に抱かれた静寂の中で杯を交わす程の幸せはない。
うちのチビたちは、例にもれず火いじくりが好きなんだなぁ~
火ばかりいじくってると、おねしょするんだからなぁ~、と脅すのである。
喰った事がない、初めて食べるタッシー製ホットサンドに痺れるチビ助である。
ジコ姉ちゃんは、カオリお姉さまに髪を編んでもらう。
すげ~すげ~、芸能人みたいだ(笑)
静寂とは言うが、川の流れる音、梢が風に揺れる音、落ち葉がカサコソと落ちる音、獣が歩く音、時々クマが木から落ちる音など自然の音は豊富である。
人間の作り出す音は、僕らがつくる音以外に、時々遥か上空を行き交う飛行機のものしかない。
夏から暇なく続く野良仕事。秋になり少し余裕が出るとも思ったのだが、どう言う訳か暇なしである。いやいや、仕事そのものはそれなりに落ち着いているのだろうが、なんだかゆっくり昼寝もできないような小さな忙しさがあるのである。
今までどれほど疲れても、暴飲暴食でも、腹が痛くても手を出さなかった「クマの肝」を飲んだ。
ある意味、仙台という街(都会)に住み、現代的生活環境に充たされたタッシーとヒロ坊との会話と言うのは、非常に楽しい。
そして、田舎という環境にいるオイラにとって、人間的な余裕を持ち、自然と楽しみ触れ合える術を知る人と付き合う事は刺激的なのである。
田舎の人間と言うか、俺の周りの人たちの多くは、自然に抱かれる事を快い事とは思っていないようである。生活環境がこうだから仕方なく自然と付き合い、キノコや山菜を採り、農業をして、そして進行方向は街、都会志向なのである。
置かれた自分の生活環境に対し、豊かであるとか、満たされているとか、そう感じている人はそう多くない。
山や自然に関心がないのである。
言葉では、「豊かな自然」とか「自然環境」などと平気で言うが、自分たちの近くの環境の中にテントを張り泊まる・・・・・なんてのは、変人のする事である、くらいにしか思っていないようだ。
まあ、良い。それぞれがどう思おうが俺には関係ない事であるが、物事を考えようと言う時に、上辺だけ見て、知って、それで真の議論や意見は出来ようもないのである。
根底を突き詰めた、言葉に表現できない真実という重い重い弾丸は、言葉と言う実態に近い弾丸を練り固め発射できないまま、グロバリゼーションとか経済中心主義という即戦力に飲まれてしまうのだろう。
自分の故郷の奥深さを知らず、対面ばかりで先へ進もうという「日本」を見ているようで、それが無知や背伸びに見えて仕方がないのである。
愛し、守るべきもの、そういう基本を得ずに、土の上を二本足で立ち歩くという野蛮な動物の如く、学識や財力、年功や力、そればかりをかざした頭でっかちの生き物には、ささやかな山の中で夜を送る心細さも、それを楽しむワビサビもないのだろう。
そんな者が、大地に線を引き、国家や或いは財産である、などとはお笑いなのである。
TPPだとか、原発だとか、経済危機だとか・・・・・・
18世紀の経済革命から、石油の恩恵を受け、僕たちは70億の人口を抱える星にあって、たった2~300年で滅亡しそうじゃないか。
恐竜も微生物も、過去5回の全滅を繰り返したと言うが、彼等の繁栄滅亡パターンと人類の増加のパターンは似ているんだってさ。
秋になれば梢から落ちる葉を、「いとをかし」とやってた国民が・・・
それを忘れちゃってさ、いいのかね~
奥山に もみじ踏み分け鳴く鹿の 声聞くときぞ 今は悲しき
オイラは、素晴らしい仲間を持っている。
何だか忙し楽しすぎて、あんまり写真が撮れなかったなぁ
そして何だか薄暗い朝に、暗い事を書いてしまった。
綺麗なキャンプの写真は、タッシーの「ソト遊び」にジャンプして、タッシーのブログで楽しんで下さい(写真がなくてズルしちゃうんだぁ(笑))
タッシー、宜しくね(*^_^*)
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