毎日の新聞紙面を見るにつけ、日々の生活の中での見聞において、小言を言いたくなる訳である。
お役人と言うか、或いは議員という方々、経済界や権力者と言われる方々・・・。
ありゃぁ、国家や地域や民衆を守らなきゃならん、などと言う気持ちなどこれっぽっちもありゃぁしない。
自分と、それについて回る利益だけを見つめた生き方である。
こんな紙面毎日見てたら、頭がおかしくなっちまうよ。
何処か外国の話でも見聞してる気分になっちまう。
地域や、日本を素敵な場所として、民衆が幸せに暮らせる世界を理念に置いて活動されている偉い人などは、ほんの僅かの少数派ではあるまいか。
民衆の望みと、政治はかい離している。
高畠の和田なんちゅう小さな地域でさえも、そんな塩梅であろう。
こんなアホなkuma仙人であるが、ああいう尊大な態度で地域を牛耳ったり、国家を牛耳る勢力には、真っ向から対峙していかねばならん、などと思っているのである。
口を出すなら、身体も動かす。
口を出さなくても、身体は動かす。
特に、子供や老人についてのボランティアには積極的に参加しようと考えているのである。
口ばかりの面々が、公の場ででかい口を叩くが、現場でお見受けすることは少ない。
でかい口を叩いても、現場でお見受けする方には、敬意を送り、共に活動する。
先日失脚した、カダフィー大佐であるが、彼はこんな言葉を操った。
「51の意見が、49の意見を潰す。民主主義と言えど、それは51の独裁である」
見方によってはそう見えなくもないのだが、民主主義と言うのは、その51と49が話し合い、意見を練り、妥協し、進歩し、改善し、前進し、
51対49を80対20 90対10 或いは、100まで理解し合うと言う事ではないのかと思う。
最初から、100賛成という会議は危険であり、民主主義としては憂慮する傾向である。必ず、懐疑的であったり、不備を指摘したり、反対意見があって健全なのである。
どうも、この辺のところが、「地域」とか「国家」とかでは捨て置かれている。
数の理論。数の力。権力の力、などによって物事が決まっている。
そんなところは素敵な処となり得ないのである。
自分の範疇という垣根から、一歩外を眺めれば、
そこには川が流れ、木漏れ日の漏れる美しい山々があり、小鳥は囀り、寡黙な小さな動物たちが、チョコマカと活動する。
山に立てば、権力と金の渦巻きは、遥か眼下の鍋の底で渦巻き、いや、それさえも見えず、刈取りを待つ黄金の大地に、人々の生活が垣間見れるくらいのものである。
原発再開容認。輸出追随。
東電が云々。
公務員官舎が云々。
かい離している。
この国家は、何を求めているのか、どこへ行くのか。
小さな町からであってもいい、町を挙げて意見し、おかしな国家なら、その国家から独立するくらいの鼻息の荒い志士があってもよかろう。
給料貰ってるんだ、高畠町議さんよ~、
稲刈りなんてしてね~で、町民の為に働いてくれよ~。
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