732回目の記事

昨年2月から始めたブログ。
もう732回目の記事になる。
ほぼ毎日連発だからなぁ。

最近の記事はちょっと長い。
書きたいことがいっぱいあって、記事を分けないでまとめてアップしちゃうから。

311を境に、社会や日常を厳しく見つめるようになった。

取り返しのつかない過去を、少なくしたいという気持ちである。

今まで目をつむっていたことも、仕方がないとさらっと流していたことも、
それらが募って大きな失敗になる。

それらが募って、本来分配されるべき利益が、誰か特定の人間に集中したりする。
それらが募って、権力が、能力の有無に関わらず集中する。

未来をつくると言う事は、ささやかな毎日の積み重ねでもある。
小さな疑問を捨て置けば、やがて大きな疑問となり、疑問が固まり、物に姿を作りかえられる。

年金による箱モノ。
電力会社による原発。
地方にあり、利用度が分からない施設。

森林内にある、コンクリートで出来た木材風の柵。
利用意図が分からない林道。

埋まって、滝にしか見えない渓谷の小さな砂防ダム。

もはや天文学的恐ろしい数字の羅列となりつつある日本の国債。
阿佐谷だか埼玉の何処だかに造られようとしている100億円の公務員官舎。

et cetera et cetera




疑問、問題を頭ん中だけに抱え込むと、おかしなものがどんどん出来上がる。
民衆は、その疑問を放出し、市町村・県・国会などの議員はその疑問を集約し行政のチェックを行う義務がある。

そこのところが上手く機能していなかった日本国である。


愛知県の某市で、福島県産の花火打ち上げが中止されたそうだ。
放射能を撒き散らす危険があるという市民からの苦情によるそうだが。
それを表現する市民もいるだろうし、そうでない市民もいる。

花火から放出しちゃう放射能に苦情を申し立てる市民と、その元凶原発を許しちゃってる市民は同一者であろう。

自分の心の内を表現するのは良いのだが、そのバランスも大切である。

悲しいかな、私にはこの愛知県の件や、京都の送り火などの事が、まるで我儘小僧の駄々に聞こえる。

花火のカスの放射能を心配するくらいなら、もう少し勉強して、そのエネルギーを、人類の喫緊の課題として存在する原発や原水爆禁止や沖縄当たりの基地問題、海外の飢餓や内紛などによる飢餓難民などに向けて頂ければ素敵だと思うところである。
2011.09.20:kuma仙人:[文学的な考察]

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