只今は、信州の際奥寒村、川上村にいる。
生まれ故郷であり、標高1300mの寒い村である。
弟のPCからのブログアップである。
寒い。日中マイナス3度であり、夜はマイナス7とか8とかである。
1月後半の最も寒いころにはマイナス15とか、時には20度まで行くこともしばしばである。オイラが子供のころはマイナス27度になったことがあった。
山形からは、その辺のアウトドアの散策を楽しみに来たのだが、想像以上の寒さである。山形の山のてっぺんより寒くて、出歩けない。
誰も外を歩いていない。
氷は一日中解けない。降った雪も解けずに昇華してなくなっていく。
家の廊下には、凍ってもよい食材が並んでいる。
凍って悪いものは冷蔵庫に入れるのである。
窓ガラスは全部凍って外が見えない。日が当たり10時過ぎないと解けない。
生まれて、育った土地であるが、20年も山形の生活が続き、こんな激しい寒さのところで育ったのかいな、と、驚きの境地である。
星は、空にあることはあるのだが、空の奥深くではなく、その辺に見える。
遠い星も近い星もない。そして、星座などは、子供には確認できないのである。
星が多すぎて、見えすぎ星座を繋ぐことができないのだ。
人工衛星もバンバン見える。見えるが、5分が限界だ。耳や足の先が冷たくて、髪の毛はバリバリに凍る。
かみさんが洗濯をして、干したのだが、2分もしないうちに凍った・・・。
よく乾燥した中央高地である。
空気は乾き、寒さも心地いい・・・・いや、凄いのだ。
禁煙なので、外でタバコを吸わなければならんのだが、フィルターを通し口に入る煙は、その時点で冷たく、うまいんだか、まずいんだかわからん。
さて、山形は大雪らしいが、ブドウ園大丈夫かな?
ポチと猫と鶏は、近所の子分に世話を頼んだが大丈夫かな。
帰ったら、雪で庭に入れないんじゃないべか・・・・・。
熊は寝たべな~。
住まう土地が、やはり気にかかる。
しかし、見るにつけ聞くにつけ、不思議で凄い村である。
動物被害のことや、文化、メディア、生活環境など特筆することが多くある。
今後、山形へ帰ってからゆっくりアップしようと思う。
ヒーターを焚いてくれた弟の部屋だが、足が冷たくて限界・・・たまらん。
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おぉっ!?
川上村のご出身でしたか。
24年程前に佐久広瀬に住み込んで野辺山でアルバイトしました。
男山は変わらず毅然としているでしょうか。
八ヶ岳は泰然としているでしょうか。
白く大きなパラボラアンテナは空を仰いでいるでしょうか。
懐かしいですねぇ。
24年程前に佐久広瀬に住み込んで野辺山でアルバイトしました。
男山は変わらず毅然としているでしょうか。
八ヶ岳は泰然としているでしょうか。
白く大きなパラボラアンテナは空を仰いでいるでしょうか。
懐かしいですねぇ。
やっぱ寒いが!
キャンプでもビールが凍らないように
クーラーボックスに入れるが、
凍ってもよいものを置く廊下…ムムム、
足の指が冷たくなってきた(笑)
クーラーボックスに入れるが、
凍ってもよいものを置く廊下…ムムム、
足の指が冷たくなってきた(笑)
昔はもっと寒かった
月の人 さま
24年前。たぶんオイラは北海道の牧場で牧童やってた頃かな。
実家がレタス農家、俺は長男だったので、レタス農家の跡取りをする前に、2年間違う経験をしたくて20歳まで北海道恵庭市の牧場に居ました。
日航ジャンボが墜落したのはその頃でした。
写真は、南八ですかな。野辺山当たりの飯森山登山口当たりからの眺めだろうか。八にはよく登ったのだけれど、赤岳より南は挑戦したことがなく、山の名前を忘れてしまったけれど、八ヶ岳はちまき道路を行くと、登山口の看板がありますね。
山形から、あのあたりにバイトですか。川上の実家近所には、それで知り合い結婚された高畠出身のお嫁さん(もうかなりお年だが)もいますね。
141号を野辺山に向け登ると最後のカーブ正面にドデンと男山の急峰が迎えてくれ、山形に帰る最後にも男山は最後までその姿を見せてくれます。
八ヶ岳は北風に吹かれ、大きな雲の塊となってその裾野しか見せてくれませんでしたが、しっかりとそこにあり、20年暮らした記憶の通り、変わらずに雲の中に記憶の姿を見ました。
子供たちには、日本第2位の大きさになってしまった45メートルパラボラを自慢してきました。
相変わらず、透明で雄大な空気に触れてきました。
実家がレタス農家、俺は長男だったので、レタス農家の跡取りをする前に、2年間違う経験をしたくて20歳まで北海道恵庭市の牧場に居ました。
日航ジャンボが墜落したのはその頃でした。
写真は、南八ですかな。野辺山当たりの飯森山登山口当たりからの眺めだろうか。八にはよく登ったのだけれど、赤岳より南は挑戦したことがなく、山の名前を忘れてしまったけれど、八ヶ岳はちまき道路を行くと、登山口の看板がありますね。
山形から、あのあたりにバイトですか。川上の実家近所には、それで知り合い結婚された高畠出身のお嫁さん(もうかなりお年だが)もいますね。
141号を野辺山に向け登ると最後のカーブ正面にドデンと男山の急峰が迎えてくれ、山形に帰る最後にも男山は最後までその姿を見せてくれます。
八ヶ岳は北風に吹かれ、大きな雲の塊となってその裾野しか見せてくれませんでしたが、しっかりとそこにあり、20年暮らした記憶の通り、変わらずに雲の中に記憶の姿を見ました。
子供たちには、日本第2位の大きさになってしまった45メートルパラボラを自慢してきました。
相変わらず、透明で雄大な空気に触れてきました。
タッシー兄貴へ
ガク さま
八ヶ岳高原の風
写真は野辺山の獅子岩付近から撮影したものだったと思います。
あの辺りに行くと東西南北の方向感覚がひっくり返ってしまうのですが、そう、富士山の見える方角なので南峰になりますね。
24年前は、まだ愛知県に住んでいました。
仕事を辞めてどうしようかと思案していた頃です。
東に男山、西に八ヶ岳を常に感じながら2ヶ月間を過ごしたのです。
その当時に知り合った方と交流があり、折りに触れて出かけていました。
愛知県から諏訪湖を通って麦草峠越えがお気に入りでした。
山形に帰郷してからも何度か出かけていて、実は1年半程前にも1度訪ねています。
今年その方が亡くなって野辺山との縁も切れてしまったと思っていたので、ブログ記事を拝見して突然空気感を思い出した次第です。
次に行く機会があるかどうか解りませんが、四季折々の自然は山形とまた違った厳しさを持ち、鮮烈な印象で残っています。
アルバイトを終える前日、男山を中心にかかった大きな大きな虹が24年経った今も脳裏に焼きついています。
あの辺りに行くと東西南北の方向感覚がひっくり返ってしまうのですが、そう、富士山の見える方角なので南峰になりますね。
24年前は、まだ愛知県に住んでいました。
仕事を辞めてどうしようかと思案していた頃です。
東に男山、西に八ヶ岳を常に感じながら2ヶ月間を過ごしたのです。
その当時に知り合った方と交流があり、折りに触れて出かけていました。
愛知県から諏訪湖を通って麦草峠越えがお気に入りでした。
山形に帰郷してからも何度か出かけていて、実は1年半程前にも1度訪ねています。
今年その方が亡くなって野辺山との縁も切れてしまったと思っていたので、ブログ記事を拝見して突然空気感を思い出した次第です。
次に行く機会があるかどうか解りませんが、四季折々の自然は山形とまた違った厳しさを持ち、鮮烈な印象で残っています。
アルバイトを終える前日、男山を中心にかかった大きな大きな虹が24年経った今も脳裏に焼きついています。
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