時事な話題でひとつ考察

尖閣の海保の船と中国漁船の衝突ビデオの流出で、
国会でもマスコミでも、あちらこちらで結構な騒ぎになっておるなぁ。

そんで、流した人間を探し出し、罪に問う覚悟のようである。

朝日新聞「声」欄の投稿にあったのだが、
この映像をマスコミが入手し、すっぱ抜き、特ダネとして放送していたのならどういう扱いになるのだろうか。

罪に問うのであろうか。

また、国家権力の暴走を未然に防ぐための監視能力としてのマスコミであるなら、
誰がマスコミであり、誰からがマスコミでないという明確な規定はあるのだろうか。
個人が、マスコミとして活動し、その知りえた情報を民衆に知らしめること自体に問題があるのであろうか。(この場合、公務員が知りえた情報を個人の意思において、この任に当たる事は法で禁じられてはいるが)
国民の大多数が、その真実を求めるのであれば、それが国民の望む国益であって、たかだか衆参合わせ1000人に満たない国会議員の中でも、さらに与党といわれるごく一握りの中でさえ賛否あるだろうが、その国会の意思が国民の声であり、国益であると決定づけるには力が足りないのではないか。

そもそも、つまらない事をいえば、国民投票の投票率60%で、そのなかで各党への投票率、各個人の得票率をいえば、立候補者が多いほど票が分散され、純粋に国民の大多数意見としての代表者たる国会議員の成立には程遠いのである。
例をあげれば、有権者10000人60%の投票率、20人の枠に対し30人の立候補、単純に計算すれば10.000×60%÷30人×20人=4.000人
4.000人の意見のみで、過半数以下で意思決定がなされることになる。そして一人当たりの得票を計算すれば平均200となる。(こんな単純なものではないが、数字遊びですな)
国会議員であっても、有権者や投票率をこの式にあてはめればおおよその平均値くらいは導き出せるだろうが、驚くほど低い得票数に笑うしかないのである。
有権者の他、権利を持たない未成年も含めれば、当選者一人当たりの発言権にそれほどの責任を与えてもいいものか?と、首を傾げたくなるのであるが、これがシステムであり、決まり事であるから仕方がないが、
厚顔無礼な何処の議員の面を見て、笑ってしまうのは俺ばかりではないだろう。


もはや、ネットなど高速相互通信の時代に、一部の国民(国会議員)のみにより国事の決定を全て行う事など、時代遅れの国営となりうろう。
新しい時代を見据えた、国会運営を図らなければ、国民はネット上で国家から独立し、新しい世界を構築する事になる。
更に、世界共通の代表的言語が末端まで浸透することになれば、それぞれが意見を交換し、国家の決定とは別に民衆の国家として民衆が活動しえるのである。


そもそも、国会は国民による議員代議員性であり、国家・文民以外の軍人や官僚の暴走を防ぐための、われわれの代表としての監視能力として存在しうる一面ももつはずである。
しかし、いまや国会議員そのものが権力と化し、やりたい放題、或いは、能力が期待に答えられない不適格者などの、ぬるま湯につかる場所としての機能不全に至っているのではないだろうか。それをある意味では暴走というのではないか。

国益、国益と良く聞くが、国益考えているのだろうか?

この問題であっても、国会では単純に流出の責任を問題にしているだけにしか見えないのはオイラだけであろうか?

本来、そんな国民の代表である議員を監視し査定するのが我々の選挙権ではあるのだが、選択のしようがない国政選挙であっては、ミャンマーあたりの軍政選挙と言葉や形態こそ違い、民衆の声、民衆の代弁者足りえないであろう。

ブログであっても、小さなマスコミ足りえるのである。
こうして、私が日々アップする意思は、ネットの世界、全世界において誰かが知りえる情報として、ささやかながら緊張と配慮のもとに、オイラの名前を匿名とせずそこに添えて記すのである。


    
2010.11.10:kuma仙人:[ぼやき・つぶやき]

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