昨晩、みっちのだいすきだずさんの、記事に宛てたコメントなんだけれど。
犬の介護の記事に、何だかショックを受けてしまって、
こんなことを書いてしまった。
いのち、の感じ方は人それぞれ皆違うだろう。
で、俺たちは、それぞれ違うだろう価値観を、公約数の理論で共有しなければならない社会を持っている。
結婚観であろうが、いのちであろうが、自分一人のわがままを通す訳にはいかないのである。
であるから、客観的に、適切な判断、理解が必要であるが、
それがまた、時代や場所によりまちまちである事も否めない。
しかし、生きるという事は、他人の死を見つめる。
或いは、他人の死を受け入れる、という事実は、場所や時代を別にしても共通の、客観すべき事実ではないだろうか。
愛おしいものの、死にゆくさまを、目の当たりにする事は大変に辛い事である。
しかし、それをさけてしまったのなら、俺たちの成熟は先送りになってしまうんじゃないのだろうか。
そう、自分の死に直面するまで、誰一人(たとえペットでさえ)その手の中で命絶える事無く・・・・。
で、そんな俺たちが、誰かの手に抱かれ、胸に抱かれ、惜しまれ、その手を放さなければならない臓器移植のドナーとなる人やその家族に、どんな・・・・気持ちを向けられるのだろうか。
死は、厳しく受け入れがたいものであるだろう。
15歳以下の臓器移植も可能な話であるが、
なおさら、我が子を抱き、人工心肺の停止を迎える親が、その命の僅かを、誰かに与えんとする、その心を思えば・・・・。
たとえペットであろうと、人であろうと、
需要があり、マーケットが成り立つのであるといわれようが、
私には受け入れがたい。
自分の悲しみ(苦しみ)を、はたして他人に任せていいのだろうか。
(後記:自分の苦しみを、誰かに告白し、懺悔し、苦しみを和らげる、というのが神の存在理由であるかもしれないと思っている。おれは、神を信じないから、苦しみは全て受け入れ、耐えるのである。「変えられる事は変える努力をし、変えられない事は受け入れる」しかないのである。起こった事は(死も含め)受け入れるしかない事は、誰でも知っているはずだ。)
そんな、俺たちは、自分や自分の身内が、誰かの命を(悲しみを)得る事によって、生きていいのだろうか。
口蹄疫で、死する数十万の家畜や、毎日口にするそれ以上の多くの命を糧にしている現実を、もっと重く受けとめたい。
いや、その事実を、常に知り、常に想い、大切に感じ生きたい。
脱線みたいだが、すまん。
俺のブログにこのコメント、そのまま乗せていいかな???
以上であるが・・・・・
犬の介護や人の介護がいけないと言うわけではない。
臓器移植に反対な訳でもないが、
いのち そのものの議論、あるいは教育(牛や豚のと殺や、病気で親の手に抱かれながら命を失う子供がいる現実、アフリカあたりで骨皮になり死んでいく子供たち・・・・・いのちをちゃんと議論し大人になっているのだろうか)に対して、疑問を感じるのである。
自分の大切なものの、命を失う事だけに集中して、それ以外の命を考える余裕がないのではあるまいか、この国は・・・・と、こう思うわけである。
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