長ながし夜を ひとりかも寝む
ヤマドリは、オスとメスとが別々に寝ると信じられていて、
ヤマドリの尾のように長い夜を、寂しく一人で過ごすのだなぁ~
寂しいなぁ 寂しいなったら 寂しいな~
という趣旨の詩であると、高校の入試の時覚えた脳みそ、俺のハードからCPUが引っ張り出してきた。
はじめてヤマドリに出会ったのは、高校の時。
信州の田舎の実家の残飯捨てる林の中で、残飯をあさっていたのを発見し、なぜかテニスのラケットでたたき落として捕獲。
毛をむしり、喰ってしまった。
当時、あの手の尻尾の長いのはみんなキジだと思っていたのだが・・・・。
sidareo様、
現実ってのは、なかなか厄介なものでありますな。
ここで、穴ぼこをほじくり、セメントを流し込んで、その出来栄えに満足である、と、コーヒーを啜りながら自画自賛。
ふと、頭の中をコンドルが飛ぶと、なぜか、ソマリアあたりの真っ黒な小さな女の子が、骨と皮になり、粘膜のまわりにはハエが群がり、今まさに息を引き取ろうとする姿がよぎったりする。
夢の実現なんて、すべての矛盾を無視した、ほんの小さな世界の中でしか完結しない世界なんですな~。
それを言ったら、あんた、おしまいだよ~・・・と、誰か言われるのが聞こえてきそうだけれど。
以前、このログにも書いた事があるんだけれど。
”しあわせ って どこにある?”
と、まわりの人に聞いてみてください。
なるべく、世間に毒されていない、若者の方が面白いと思うのですが。
すると、ほぼみんな、斜め上を見て考えるんですね。
で、あのさ、君たち。
今、俺と君たちがこうして出会えて、こんな話が出来る。
それを、幸せとは感じないかい???ってね。
いま、幸せを考えるに当たり、君たちは上を見たろう??
幸せは、上にあるんじゃない。
いま、踏んでいるそれこそが 幸せなんだよ。
いま、踏む大地の上に、君たちがいられる事そのものが、しあわせって事じゃないか?
と、やるわけですよ。
今を、しあわせと思えるか、そうでないのか。
自己暗示みたいなものではあるけれど。
幸せとは そういうものでしょうな、
個々にみんな全て、しあわせの定義が違うでしょうから。
そもそも、幸せを語る大人がまわりにいなくて、それが、不幸なんですな。
”おれは、しあわせである”
と宣言すれば、
都会からやってくる学生なんかは 半数がその言葉に打ちのめされてるみたい。
大の大人が、俺はしあわせである なんて言うのを聞くのが初めてなんですね~彼らは。
まあ、夢としあわせ とはちがうけれど、
いろんな、幸福への方向の断片をつなげて生きていきたいですな。
飢餓とか紛争とか いろいろあって、それを知らない訳ではない。
地球そのものの幸福が 私たちのしあわせであるのだろうが。
自然 というものを受ける心と身を持てる しあわせと
自然 というものに対峙できる精神を持てる夢と
まあ、諸行無常なんですな~
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