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長井北中が修学旅行で梅屋敷に :鈴木

5/10(月)、長井北中の3年生が修学旅行で梅屋敷に来るそうです!
時間は車両通行止の時間帯にも合わせ、15:00~17:00だそうです。

北中は母校だったりするのですが、修学旅行が2年から3年になったり、
さらには、より実の詰まった体験授業になって、変わったなーと思いますね。

それで、梅屋敷での企画ですが、臨時駐在員なためあまり詳しくないので、
ながいファンクラブ 2/24の記事から転載で失礼します。

>今年5月10日(月)に長井北中学校の3年生(現在中学2年生)が
>修学旅行で大田区の梅屋敷商店街を訪れ、
>長井市の観光大使としてPRをすることになりました!
黒獅子舞あやめ太鼓の披露、そして特産品の販売郷土料理のふるまい等、
>それぞれグループに分かれてPRを実施する予定です。

なお、郷土料理は玉こんや長井の蕎麦を検討しているようです。

黒獅子やあやめ太鼓には自分も縁があるので期待していますが、
音の問題を考えると、うまく商店街の人々に受け入れてもらえるよう、
事前の打ち合わせや商店街での告知が重要になりそうですね。

北中生がんばれー!
2010.03.02:jibaume:コメント(0):[●今月の予定]

長井の由来  鈴木

ついでに“長井”の由来も調べてみました。
「井戸が多くて細長い土地だから長井かなー」と、お気楽に考えていましたが、
思った以上に強敵でした・・・。

以前どこかで、「長井氏が現在の長井近辺を治めていた」と聞いた覚えがあったので、まずは『長井市史』を見てみることに。

●Ⅰ-p700
『「県誌提要」では、「文治年間に奥州の藤原泰衡が朝廷の命令に従わなかったので源頼朝がこれを討った。その戦で泰衡の残党の良元が逃れて小坂村御館山(中津川)にたてこもった。頼朝は大江時広に命令して之を討ち滅ぼした。時広がこの戦の勝利を報告したので長井郷を賞として賜った。」
~中略~
大江時広が長井氏を称するようになったのは、置賜郡の地頭となってからであり、置賜郡は屋代荘、北条荘、成島荘の三郡とのこりの地域(郡)となっていたが、置賜郡が長井庄と呼ばれたのもこのころからであり、長井氏の呼び名も地名からきたものであろう。

と、どうやらもともと“長井”という呼び名があったようです。
ということで、今度は地名の欄を見てみました。

●Ⅰ-p567
『長井は「奈加井」と注をつけているので「ながいのごう」と呼ぶのが普通である。長井の「井」は水の集まる所という意味で、野川・白河の作った扇状地に集落が発達し、そのあたり一帯を「長井」とよんだ。
~中略~
小出は小井出の転音であり、井出は堰と同じ意味につかわれた用語である。ここでは野川の堰の水を長井と称えたので長井の地名の生まれる要因ともなった。
※堰…せき止めによって水位を上げ、利水・治水などの役割を持っている。

つまりは、昔から水が豊富な土地であり、
川に長距離に渡って堰止めが行われたから“長井”なんですかね。


また、「奈加」について調べてみたところ、面白いサイトがあったので紹介します。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yokoyama/frm68.html
『川﨑真治氏は中村の「ナカ」が「蛇族」を表わすと述べております。
中国の江南語で「ナ」は蛇であり、インド語・マレー語で「ナガ」といえば「竜蛇」だそうでございます。』

奇遇にも、長井は山岳信仰の面が強く山の神として竜神を祀るところもあり、卯の花姫伝承では三淵で大蛇が祀られ、また長井の獅子舞は、全国的にメジャーな1~2人の獅子舞ではなく、大人数が幕に入って舞う「むかで獅子」というタイプであり、獅子頭の別名も「蛇頭」であったり、舞い方も一部の神社を除き上下運動が少なく水平に舞うなど、水面を泳ぐ蛇のように見えます。
そう考えると、蛇(ナガ)と水(井)で長井な感じもしますね。


久々の東京で言って伝わらなかった方言シリーズ③
「しなこい」
どういう場面で使ったかは覚えてませんが、飲み会で焼肉を食べた時かもしれません。
「これ、しなこくて食べにくい・・・」
「え、“しなこく”?」
「あー、やっぱり伝わらないかー。“しなこい”は、なんというか柔らかくて噛み切りにくい感じなんだけど。」
「そういえば、“あまっこい”とかも前言ってたねー。“っこい”って方言?」
「あー、そうなんかも知れない。」
今思うと、「脂っこい」は共通語だし、「っこい」ってなんなんでしょうね?
あと、意外と「しなこい」が伝わらないと結構不便です(笑)
2010.02.26:jibaume:コメント(2):[●スタッフ日記]

梅屋敷の由来   鈴木

さて、東京は大田区「梅屋敷商店街」にお世話になっているわけですが、
「なんで“梅屋敷”って呼ばれてるの?」ということで、調べてきました。

とりあえずは、商店街から歩くこと200mほどの「梅屋敷公園」へ。


↑入口付近から

↑休憩スペースから

●梅屋敷の由来

『梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地三千坪に、その子久三郎が文政の頃(一八一八~一八二九)に、梅の木百本をはじめとしてかきつばたなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まるといわれています。
当時はのちの十二大将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所とした程の屋敷で、その雅趣ある風情は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、特に梅の開花期には非常なにぎわいを見せたようでした。   大田区』

●梅屋敷と和中散売薬所跡

『「和中散」は食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて(一六八八~一七一六)大森村中原、谷戸、南原に三店が開業した。
このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したという。
文政年間(一八一八~一八二九)の初め、忠左衛門の子の久三郎の代に、庭園に梅の名木を集めて休み茶屋を開いた。
亀土の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。   大田区教育委員会』

●明治天皇と梅屋敷

『梅屋敷は、明治元年(一八六八)から明治三十年(一八九七)の間に天皇の九度の行幸がありました。
天皇はことのほか梅屋敷の風致をこのまれ、明治六年(一八七三)三月六日のご観梅のときには小梅一株をみずからお手植なされ、このうめは仙粧梅と称されて後に人々に愛されたといわれています。その後昭和八年(一九三三)に史跡として保存指定を受け、昭和十三年(一九三八)に東京市へ寄付、さらに昭和二八年(一九五三)に大田区に譲与され、現在に至っています。   大田区』

どうやら、“梅屋敷”という名前は薬屋・茶屋のお屋敷の名前(もしくは愛称)からきていたみたいですね。

さらに詳しい話は<梅屋敷探検隊>というサイトに載っているようです。
そのサイトによれば、もともと梅の栽培に適した地であり、平安時代には梅が多く植えられていたそうです。
また、このような茶屋を営んでいた屋敷が今では公園になっているのは、明治31年(1898)に起きた悲劇のようなある事件によって衰退していったとか。

なお、梅屋敷跡地は京急線の開通工事などによって、今ではごく普通の公園と同じ程度の広さにまで減ってしまっています。

現在の梅屋敷公園に植えられているさまざま梅。

↑白加賀梅、黒田梅

↑寒紅梅、豊後梅

↑冬至梅、大杯梅
2010.02.26:jibaume:コメント(0):[ >梅屋敷商店街]

おおた工業フェアありがとうございました 鈴木

2/18(木)~20(土)に開催された大田工業フェア、無事終了しました。
来場下さった方々、関係者の方々、ありがとうございました!

↓当日の写真を市役所の方からいただいたので、当日の写真を。




先日のコメントにも軽く工業フェアについて触れましたが、自分は3日目のみの参加でした。
来場者の中には長井企業それぞれの技術に強い関心を持って下さる方も結構いたように感じました。
また、200部あった長井の工業企業ガイドブックと、
おみやげのお麩もすべて配り終えました!
ブースにいる間、時間があると長井の展示品を見ていたんですが、
これまであまり工業に触れる機会もなかったせいか、
「長井って工場が多いとは思ってたけど、こんなに色々な工業をやっていたのかー」
と、奇しくも東京の地で思い知らされましたね。
この工業フェアのように、中学校の地域教育などで、長井市内の企業が
どんなものを作ってるのかを見せる授業があったらいいのかもしれません。


あと途中、休憩がてらにブース全体を見て回ってきたりもしまして、
長井のような部品・加工系のブースには工業関係者が、
販売製品系のブースには一般の来場者が多かったかなといった印象を持ちました。
しかし、部品・加工系のブースの中にも、工業フェアのために作っているのか、
プラスチックの立体パズルなど、技術を生かした簡単な見せ物もあり、
工夫しているなあと関心しましたね。
さらには、企業の技術を生かして、シャンプーの詰替パックを
ボトルに入れずにそのまま使える製品を開発し、実際に販売している企業もあり、
「これは!」と思い、つい買ってきてしまいました(笑)
>>(株)三輝「詰め替えそのまま」


また、来年出展するときは、今年よりも良い出展ができるといいなあと思います。



↓長井の出展関係者で反省会・懇談会も開かれたようです。

2010.02.22:jibaume:コメント(0):[●今月の予定]

◎『おおた工業フェア』に出展します。

2010.02.18:jibaume: