国宝「大崎八幡宮」伊達政宗の建立
7月6日~7日 二泊三日の研修旅行を実施しました。
仙台の七夕は8月その前に大崎八幡宮では参拝客が願い事を短冊に書いて下げていました。
本殿・拝殿・石の間御社殿の説明をお聞きしました。
七夕飾り 飾りつけの一つ一つに意味がある。
献木 奉納社の名前が分かる。(参考)
榊が奉納されていました。
帰り足塩釜の市場に立ち寄りました。
多賀城:陸奥総社宮
各地の神社祀られている神様の名前が書かれていました。
杉木立が歴史を物語っていました。
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兼務社(屋代)研修旅行
2008.07.08:ichinohe:コメント(0):[兼 務 社 (祭り・行事)]
社務あれこれ
7月2日三重塔の前に置いてある賽銭箱から賽銭を盗んだ者がいた。
賽銭の多少に関らず賽銭を盗むと言う行為が許せない。
後日、拝殿の中の賽銭を回収したところ中に手紙が入っておりました。
「古い話にはなりますが明治前の方がお祈りをさせて頂き
何かお願いを申し上げた そのままになり御奉納がそのままにすみません
心ばかりですみません ありがとうございます。」と書いてありました。
名前は分かるのですが住所が書かれていません。何処にお住まいなのか?
御神縁を大切にされてご先祖さまの願い叶っていたのでしょうか?
まさに「敬神崇祖」の教えの実践例でしょう。
これからも神様とのご縁を大切にしてください。
ありがとうございました。
拝殿の屋根に生えていた草をとってもらいました。
ご苦労様でした。
賽銭の多少に関らず賽銭を盗むと言う行為が許せない。
後日、拝殿の中の賽銭を回収したところ中に手紙が入っておりました。
「古い話にはなりますが明治前の方がお祈りをさせて頂き
何かお願いを申し上げた そのままになり御奉納がそのままにすみません
心ばかりですみません ありがとうございます。」と書いてありました。
名前は分かるのですが住所が書かれていません。何処にお住まいなのか?
御神縁を大切にされてご先祖さまの願い叶っていたのでしょうか?
まさに「敬神崇祖」の教えの実践例でしょう。
これからも神様とのご縁を大切にしてください。
ありがとうございました。
拝殿の屋根に生えていた草をとってもらいました。
ご苦労様でした。
本殿保存修理工事
柱の腐れがひどい よく250年がんばった ご苦労さんでした
それぞれの柱の状況に合わせて新しい柱を「継ぐ」いろいろな継方が見られた。
お見事!ぴったり気持ちよく根継ぎ完了
これから250年間大丈夫
宮大工さんたちの手作業による解体の場面
現在保存修理工事の本殿は今から250年前宝暦5年(1755)に竣工した建物です。
前の建物は今の位置よりいちだん高い所に在りました。
火事で焼けその時に鈴が転がり落ちて止った所に本殿を建てたそうです。
本殿の茅屋根が北側に落ち込んできている状況でした。
本殿東側奥の脇障子:龍の彫り物で彩色が施されている
本殿西側奥の脇障子:虎の彫り物で彩色が施されている
随神・右大臣左大臣が鎮座する。
この平成の大修理に合わせてこの像も修復出来ればいいのだが?
御扉(みとびら)立派です。黒漆塗・金箔の御紋章この度の修理で一段と
立派になるでしょう。
安久津八幡神社の歴史
貞観二年(860)慈覚大師が安久津の豪族安久津盤三郎の協力で阿弥陀堂を建立
金蔵院として信仰を集める。
永承六年(1051)源義家が安倍一族討伐の命を受け二井宿峠を越えて当山に入り
戦勝を祈願し大勝利を得た(前九年の役)
寛治元年(1087)再度金蔵院に立ち寄り戦勝を祈願し大勝利を得た(後三年の役)
そこで鎌倉の由比郷より八幡神を分霊してお祀りしたのが安久津八幡神社の起こりと言い伝えられている。
源氏の氏神八幡神に甲冑や刀を奉納、別当神宮寺・学頭金蔵院・衆徒頭千殊院始
十二坊を置き、神官社家三十余人を配し、神仏両部の祭典儀式が定められていた。
以後、長井・伊達・蒲生・上杉と歴代領主により保護され、社殿の造営や社領等の
寄進が行なわれてきた。
鎌倉時代から室町時代にかけて院や坊の最盛期修行僧の能海・堪忍等の写経筆跡が
神奈川県「金沢文庫」に残っている。
伊達氏の尊崇特に篤く広大な社領を寄進される。
「独眼竜政宗」は重臣「片倉小十郎」をもって総裁に任じ神務までも司り、隆盛を極めた。
伊達氏に変わり蒲生氏が領主になると社領は没収され、社頭は衰運するが
祭祀は継続された。
文禄三年(1594)より上杉家の領地となり寛文四年(1664)に天領となる。
寛文十三年(1670)に社領五十石を賜り明治三年(1870)まで続く
元和元年(1615)拝殿火災 元和三年(1617)拝殿再建
元和五年(1619)本殿焼失 寛永七年(1630)本殿再建
元文二年(1737)寛保三年(1743)火災により旧記・宝物等焼失
宝暦五年(1755)大飢饉の中現在の社殿が再建される
明治四五年(1912)今の社務所にあった金蔵院が火災で焼失
火災で貴重な建物や宝物文化遺産を失ってしまった。残念です
金蔵院として信仰を集める。
永承六年(1051)源義家が安倍一族討伐の命を受け二井宿峠を越えて当山に入り
戦勝を祈願し大勝利を得た(前九年の役)
寛治元年(1087)再度金蔵院に立ち寄り戦勝を祈願し大勝利を得た(後三年の役)
そこで鎌倉の由比郷より八幡神を分霊してお祀りしたのが安久津八幡神社の起こりと言い伝えられている。
源氏の氏神八幡神に甲冑や刀を奉納、別当神宮寺・学頭金蔵院・衆徒頭千殊院始
十二坊を置き、神官社家三十余人を配し、神仏両部の祭典儀式が定められていた。
以後、長井・伊達・蒲生・上杉と歴代領主により保護され、社殿の造営や社領等の
寄進が行なわれてきた。
鎌倉時代から室町時代にかけて院や坊の最盛期修行僧の能海・堪忍等の写経筆跡が
神奈川県「金沢文庫」に残っている。
伊達氏の尊崇特に篤く広大な社領を寄進される。
「独眼竜政宗」は重臣「片倉小十郎」をもって総裁に任じ神務までも司り、隆盛を極めた。
伊達氏に変わり蒲生氏が領主になると社領は没収され、社頭は衰運するが
祭祀は継続された。
文禄三年(1594)より上杉家の領地となり寛文四年(1664)に天領となる。
寛文十三年(1670)に社領五十石を賜り明治三年(1870)まで続く
元和元年(1615)拝殿火災 元和三年(1617)拝殿再建
元和五年(1619)本殿焼失 寛永七年(1630)本殿再建
元文二年(1737)寛保三年(1743)火災により旧記・宝物等焼失
宝暦五年(1755)大飢饉の中現在の社殿が再建される
明治四五年(1912)今の社務所にあった金蔵院が火災で焼失
火災で貴重な建物や宝物文化遺産を失ってしまった。残念です
2008.06.22:ichinohe:コメント(0):[安久津八幡神社の歴史]