昨日(12日)も、またまた気温上昇し、暑い暑い。
もともと汗っかきのため、一日に何度もTシャツを着替えている。
午前中、檀家さんのご供養にうかがって帰ってきたら、もう大汗かいてしまった。
法衣は呂風の化繊でできている。
麻ほど涼しくはないけれど、見た目ほど暑くはないものだ。
その下に着る白衣は普通、肌襦袢は夏用なのでサラリとしている。
夏場はマメに洗濯を繰り返すよう、ある程度の数が必要で、ザブザブと洗えるものがいちばん。
それにしてもこう暑いと、洗濯物が増える。
けれど、すぐに乾くので、気持ちよく洗うことができる。
窓から見える景色や、裏の畑に出た時の空気が、夏っていう匂いがする(ような気がする)。
そしたら、夕方から猛烈な雷鳴と、夕立。
雨が降り出してからヒグラシが「カナカナカナカナ・・・・・・」と鳴く声が聴こえて来た。
いやぁ、やっぱり夏だよ。
しかし、それ以上に雷が家の屋根の上方の全方向から鳴り響く。
パソコンに繋がるネット回線を抜き、電気を落として、しばらくじっとしていた。
「雷はどこに落ちるかわからない。意識を集中して、雷が来ないようできないものか…」とやってみたけど、なんだかアホらしくなってやめた。
でも、昔は雷よけのまじないがあり、その呪文を唱えて、布団をかぶったり蚊帳の中に入ったりするよりなかったのだ「くわばらくわばら」。
今でも、雷よけのお札は存在する。
やがて、雷雨は少しづつ治まってゆき、19時からの会議に間に合うように出かける時には、西の空に青空が広がり始めていた。
「草木塔の語らい 2011」の打ち合わせ。
開催日の7月18日(月)はもうすぐになった。
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7月11日、今・・・
7月11日(月)、朝から晴れ上がり気温はぐんぐん上昇して、34℃ぐらいになったらしい。
午前中、駐車場の草むしりをしていたら、頭がくらくらとして、汗もドォーっと噴き出してきた。
まだ冬だった3月11日から、雪が消え桜が咲き春になり、田んぼに水が入り青々した苗が植えられ、山々の木々が萌えだし初夏、そして蝉が鳴きだし夏になった。
まる4ヶ月、大地震の発生から経った時間。
直接的に、また大津波や液状化現象などの震災、原発事故による大きな被害と影響。
ここ、米沢に暮らしていると、一見、以前のような日常が戻っているにも見えるが、様々な機会に、ふと甦るものがある。
私たちでさえそうなのだから、被災された方々はどんなに大変なことだろうか。
生命・財産・自らの心身の状態、後始末やこれからの展望など、想像できないほどだ。
地震と津波という自然災害が、想像以上の大きさで起きた。
それまでの歴史上の記録や、そこに住んでいる人たちの経験をしても、全体を通してみれば対処できない部分が多かった。
そして、地震の被害は、福島原発事故を引き起こし、史上経験のない事態を招いた。いまだ、そこから復活・復興する道筋は見えてもない。
それどころか、まだ見えていない恐怖の事実が隠されているのではないかと脅え、電力会社と政府に対し不信が募っているのだ。
原子力発電所事故の怖さを、震災をきっかけに事故が起きて、初めてその危なさに気がついたのだ。
もちろん、一貫して反対してきた人がいたことも事実である。
しかし、私のように「危なさはあるんだろう」とうすうす感じつつも、なんとなく安全に運航されているんだからと、電気に依存する生活を享受してきた人がほとんどではないかと思う。
私の学生時代の友人が浪江町に住んでいて、彼の一昨年亡くなった父上も彼も、「いつか取り返しができない事態になるのではないか」という言葉をお聞きしても、危機感が長続きすることはなかった。
友人も父もお寺の住職として、また市民として危機感を感じていたことは間違いないのだ。
絶対に安全ということは、真剣に科学に取り組んでいる人ほど言えないはずではないかと、私は思う。
科学者も技術者も完全に近づくことを目指しているに違いない。それに、現場では今も危険な状況にさらされながら戦っている人たちもいる。
これを、絶対安全という言葉を弄して、私のように声を上げない人たちを増やしていったのは、政治のチカラにちがいない。
ただし、今回の事故で、災害プラス人災など様々な要因が重なると、取り返しが効かないほどの危険な結果になることが、かなり分かってきた。
いざとなったら、人間が制御できないもの、処理できないことを、安全と言って生み出し続けてはいけないのではないだろうか。
その他の発電であっても、リスクのないものなどないだろう。
人などの動物がが生きてゆくためには、草や木などの植物が生きて摂取できなければならない。
できるだけ、リスクの低いものを選択すべきなのだ。
それに、私たちは、電気が無尽蔵に生み出されてくるような生活が当たり前だ、というような生き方を考え直さなければならないのではないだろうか。
「おいたま草木塔の会 会報」の巻頭言(大友会長)の一部を引用する。
『(前略)・・・戦後の復興から急速に成長し続けて60余年、人々の生活観の変化の中で、と富への異常な執着、利己心の増幅、飽くなき自然破壊と人類の我儘、傲慢さが勝ることを顧みない暴走に、ようやく人々が気付き始めた頃から、草木塔への関心が高まってきたような気がします・・・後略』
こうして、電気を使ってPCからネット発信しながら言うのもなんですけどね^^;
取り返しのつかない、人が始末できないものから、再生可能なエネルギー源への転換と、足るを知る心(満足する心)を見直すことが、今必要なのではないだろうか。
午前中、駐車場の草むしりをしていたら、頭がくらくらとして、汗もドォーっと噴き出してきた。
まだ冬だった3月11日から、雪が消え桜が咲き春になり、田んぼに水が入り青々した苗が植えられ、山々の木々が萌えだし初夏、そして蝉が鳴きだし夏になった。
まる4ヶ月、大地震の発生から経った時間。
直接的に、また大津波や液状化現象などの震災、原発事故による大きな被害と影響。
ここ、米沢に暮らしていると、一見、以前のような日常が戻っているにも見えるが、様々な機会に、ふと甦るものがある。
私たちでさえそうなのだから、被災された方々はどんなに大変なことだろうか。
生命・財産・自らの心身の状態、後始末やこれからの展望など、想像できないほどだ。
地震と津波という自然災害が、想像以上の大きさで起きた。
それまでの歴史上の記録や、そこに住んでいる人たちの経験をしても、全体を通してみれば対処できない部分が多かった。
そして、地震の被害は、福島原発事故を引き起こし、史上経験のない事態を招いた。いまだ、そこから復活・復興する道筋は見えてもない。
それどころか、まだ見えていない恐怖の事実が隠されているのではないかと脅え、電力会社と政府に対し不信が募っているのだ。
原子力発電所事故の怖さを、震災をきっかけに事故が起きて、初めてその危なさに気がついたのだ。
もちろん、一貫して反対してきた人がいたことも事実である。
しかし、私のように「危なさはあるんだろう」とうすうす感じつつも、なんとなく安全に運航されているんだからと、電気に依存する生活を享受してきた人がほとんどではないかと思う。
私の学生時代の友人が浪江町に住んでいて、彼の一昨年亡くなった父上も彼も、「いつか取り返しができない事態になるのではないか」という言葉をお聞きしても、危機感が長続きすることはなかった。
友人も父もお寺の住職として、また市民として危機感を感じていたことは間違いないのだ。
絶対に安全ということは、真剣に科学に取り組んでいる人ほど言えないはずではないかと、私は思う。
科学者も技術者も完全に近づくことを目指しているに違いない。それに、現場では今も危険な状況にさらされながら戦っている人たちもいる。
これを、絶対安全という言葉を弄して、私のように声を上げない人たちを増やしていったのは、政治のチカラにちがいない。
ただし、今回の事故で、災害プラス人災など様々な要因が重なると、取り返しが効かないほどの危険な結果になることが、かなり分かってきた。
いざとなったら、人間が制御できないもの、処理できないことを、安全と言って生み出し続けてはいけないのではないだろうか。
その他の発電であっても、リスクのないものなどないだろう。
人などの動物がが生きてゆくためには、草や木などの植物が生きて摂取できなければならない。
できるだけ、リスクの低いものを選択すべきなのだ。
それに、私たちは、電気が無尽蔵に生み出されてくるような生活が当たり前だ、というような生き方を考え直さなければならないのではないだろうか。
「おいたま草木塔の会 会報」の巻頭言(大友会長)の一部を引用する。
『(前略)・・・戦後の復興から急速に成長し続けて60余年、人々の生活観の変化の中で、と富への異常な執着、利己心の増幅、飽くなき自然破壊と人類の我儘、傲慢さが勝ることを顧みない暴走に、ようやく人々が気付き始めた頃から、草木塔への関心が高まってきたような気がします・・・後略』
こうして、電気を使ってPCからネット発信しながら言うのもなんですけどね^^;
取り返しのつかない、人が始末できないものから、再生可能なエネルギー源への転換と、足るを知る心(満足する心)を見直すことが、今必要なのではないだろうか。
日々…
宗務所の今年度の総会があり、住職に代わり出席。
就職する前には、住職のお供のようにして付いて行っていたが、久々の出席になる。
二十年ぶり(自坊での開催時を除いて)かな?
身分は、相変わらず小僧なんのだけれどもね(^^;
田沢寺は真言宗醍醐派に属していて、各都道府県の末寺があるところには、統括する宗務所が置かれる。
山形県は北部と南部に分かれていて、こちらは山形県南部宗務所なのだ。
置賜はもちろんそうなんだけど、数ヶ寺ある庄内も南部宗務所に所属するという、面白いことになっている。
何でそうなのかは、よく聞いたことがなくて、とても不思議である。
今年の会場は、米沢市内桑山の普門寺さまにて開催。
敬愛する大先輩Z師がご住職をなさっている、よく人が集まるお寺。
醍醐派のお寺は、修験を基本とするご祈祷を行うお寺がほとんど。
いわゆる檀家さんによって支えられているのではなく、信徒の方々と住職等の強い思いで支えられている。
所属する寺院数は30ヶ寺ほどあるのだけれど、半数近くが兼務や代務をするかたちで、なんとか維持されていると言ってよい。
お大師さんの供養の法要を修めてから、会議を行う。
会議では議案とともに懸案事項の協議を時間をかけて話し合った。
宗務所長のT師は恩師でもあるたいへん穏やかな方。
所長の会を締めくくる言葉に納得した。
「私たちのようなお寺は、地域の中で人のためになり、人々の心のよりどころになるような存在でなければならない。そのために皆さまも日々研鑽しお勤めくださるようおねがいしたい。」(大意)。
終了後は懇親の席が設けられた。
その中でも、苦労して寺の維持や寺院活動を行っているお話が熱く語られた。
久しぶりの出席であったが、得るものが多かったように感じる。
就職する前には、住職のお供のようにして付いて行っていたが、久々の出席になる。
二十年ぶり(自坊での開催時を除いて)かな?
身分は、相変わらず小僧なんのだけれどもね(^^;
田沢寺は真言宗醍醐派に属していて、各都道府県の末寺があるところには、統括する宗務所が置かれる。
山形県は北部と南部に分かれていて、こちらは山形県南部宗務所なのだ。
置賜はもちろんそうなんだけど、数ヶ寺ある庄内も南部宗務所に所属するという、面白いことになっている。
何でそうなのかは、よく聞いたことがなくて、とても不思議である。
今年の会場は、米沢市内桑山の普門寺さまにて開催。
敬愛する大先輩Z師がご住職をなさっている、よく人が集まるお寺。
醍醐派のお寺は、修験を基本とするご祈祷を行うお寺がほとんど。
いわゆる檀家さんによって支えられているのではなく、信徒の方々と住職等の強い思いで支えられている。
所属する寺院数は30ヶ寺ほどあるのだけれど、半数近くが兼務や代務をするかたちで、なんとか維持されていると言ってよい。
お大師さんの供養の法要を修めてから、会議を行う。
会議では議案とともに懸案事項の協議を時間をかけて話し合った。
宗務所長のT師は恩師でもあるたいへん穏やかな方。
所長の会を締めくくる言葉に納得した。
「私たちのようなお寺は、地域の中で人のためになり、人々の心のよりどころになるような存在でなければならない。そのために皆さまも日々研鑽しお勤めくださるようおねがいしたい。」(大意)。
終了後は懇親の席が設けられた。
その中でも、苦労して寺の維持や寺院活動を行っているお話が熱く語られた。
久しぶりの出席であったが、得るものが多かったように感じる。
21 米沢市小野川町大黒天の草木供養塔
米沢市の西部にある小野川温泉の温泉街から大樽川の対岸側の高見に、甲子大黒天本山寶珠寺の伽藍が望める。
その裏の山を、大黒天山主(関谷良寛氏)がシャクナゲ園として遊歩道などを整備されている。
その中腹の一角に、この塔が建立されている。
昨秋、おいたま草木塔の会の研修を寶珠寺で実施し、山主さまに案内してしただいた。
画像はその時のもの。
この草木塔について、お話をお聞きした。
『この草木塔は、もともと同じ三沢地区の羽黒堂地域の加藤氏宅にあったが、この集落で最後まで残っていた加藤氏を含む二軒が転出することになったため、協議の上(関谷さんたち)有志によって小町山(寶珠寺の裏山)に運び安置した。
羽黒堂の加藤氏の自宅敷地内に、石塔が土に直接建っているだけの状態だったことから、個人で建立されたと考えられる。
小町山に移設してから、許可を得て河川から丸石を拾い集めて、石塔の基部に配置し支えとして、現在の姿になった。』
石碑の碑面には、草木供養塔とあり、「養」の字が上と下の部分が分解されて横並び表記されている(今の状態で画面表記できなくてすみません)。
簗沢地区糸畔と口田沢上屋敷のものと同じであり、この関連はどうなのだろうか。
弘化二年(1845年)とある。
羽黒堂は小野川からもっと赤芝町寄りにあった簗沢地区の集落である。
加藤家はすでに転出されており、いずれ羽黒堂に建っていた頃のお話をお聞きしたいと思っている。
その裏の山を、大黒天山主(関谷良寛氏)がシャクナゲ園として遊歩道などを整備されている。
その中腹の一角に、この塔が建立されている。
昨秋、おいたま草木塔の会の研修を寶珠寺で実施し、山主さまに案内してしただいた。
画像はその時のもの。
この草木塔について、お話をお聞きした。
『この草木塔は、もともと同じ三沢地区の羽黒堂地域の加藤氏宅にあったが、この集落で最後まで残っていた加藤氏を含む二軒が転出することになったため、協議の上(関谷さんたち)有志によって小町山(寶珠寺の裏山)に運び安置した。
羽黒堂の加藤氏の自宅敷地内に、石塔が土に直接建っているだけの状態だったことから、個人で建立されたと考えられる。
小町山に移設してから、許可を得て河川から丸石を拾い集めて、石塔の基部に配置し支えとして、現在の姿になった。』
石碑の碑面には、草木供養塔とあり、「養」の字が上と下の部分が分解されて横並び表記されている(今の状態で画面表記できなくてすみません)。
簗沢地区糸畔と口田沢上屋敷のものと同じであり、この関連はどうなのだろうか。
弘化二年(1845年)とある。
羽黒堂は小野川からもっと赤芝町寄りにあった簗沢地区の集落である。
加藤家はすでに転出されており、いずれ羽黒堂に建っていた頃のお話をお聞きしたいと思っている。