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最後まで生きたい~難しい選択~

今朝、娘が何気なく、小児臓器提供を話題にした

 娘『お母さん、子どもも臓器をあげられるようになったんだって』

 私『そうだね。じゃあ、もし、これ以上どうにもならないと分かったら、貴女は臓器を提供する事にOKなの?』

娘『嫌、だってもしかして、生きられるかもしれないし・・・最後まで生きたいもの ! お母さんは?』
   

私『そうだねぇ・・・お母さんは、もっと歳をとって、やりたいことをやりきっていたら、これから可能性のある人へあげてもいいかなぁ・・・』

 娘の『最後まで生きたい』という思いを私は尊重したいと感じた
 
小児の脳死判定は非常に難しいとされる中での法案化

医療に光がさした事も事実なのでしょうが

提供するほうも、受けるほうも

とても難しい問題だと感じている

法案化された為に苦悩を強いられる方が増える事がない事を願いたい

再会

十数年前退職した職場の仲間と

いつもの場所での再会

退職後も定期的に親睦会をしてたたが

今回は三年ぶりかなぁ・・・

お互いにいろいろな事があったけれど

『久しぶり!』

の一言で

全てが埋め尽くされる

気心が知れた大事な大事な仲間達

どんな事があっても

笑い飛ばしてしまうような仲間達

明日へのエネルギーをたくさんありがとう!

「ほめる」弊害

近年、子育て講演会などで

『ほめて育てよう』

というフレーズを耳にすることが多かった
子どもの自己肯定力を育むことが出来ると・・・

 今、読んでいる本で
チャイルドライフ・スペシャリストの藤井氏は
「ほめる弊害」を以下のように論じている

 ほめることは、ある意味で「評価」
 「しかる」ことと外見は異なるが根っこは同じ
 上から下への価値判断には違いない
 この評価を日常的に受けると、評価に敏感になり
 評価を下す人の顔色を伺うようになる
そして自分の内的欲求より他者の要求を優先するよになる
 そこに本来の「自分」が育つ余地はない
 大切なのは
 「認める」人間の存在
 肯定的なまなざしやほほえみ
 言葉をかけるなら言う側の主観的評価のない
 相手の喜びを純粋に代弁するものであるべきだ
 


 子どもとの関わり方について、見直してみようと思った
 ほめる、叱る、認める・・・
 本当に大切なのは
 その時々に合わせて、バランス良くなのだろ
 そして、大切な瞬間を一緒に体験し共有することではなかろうか・・・

英才教育したぁ?

休日・・・少し遅めのゆったりとした朝食の時

長女 『ねぇ、お母さん。私達が三歳くらいの時、英才教育したぁ?』

私 『英才教育って何?』

長女 『んーとぉ・・・英語とか茶道とか漢字とかかな』

私 『へぇー、それをすると何かいい事あるの?』

長女 『んーとねぇ。やり方を間違えると、キレる子どもに育つんだって!』

私 『・・・・そうですか』

 なんとコメントしてよいのか戸惑った

 求めなくても、目から耳からたくさんの情報が入ってくる時代
成長の度合いに合わせて必要なものを必要な時にとは難しい
頭でっかちにならないよう
体験、経験を通していろいろな事を身につけて欲しいと願う

子供達が幼いときから拘ったこと
はさみ、包丁は三歳より前から持たせた
危ないから使わせないのではなく
危なくないような使い方を教えたいと考えた

刃物のみならず、この思いは今もかわらない
気持ちにも時間にも余裕がないと大変なことだけど

折に触れて原点を振り返りながら
子供達を見つめていきたいと思う

白帽子お願いします

帰宅すると机上に次女からのメッセージがあった

 おかあさんへ 
 プールで25メートル
 およげました
 白ぼうし
おねがいします

学校の授業で25メートル泳げると
水泳キャップが赤から白になる

土曜日一緒にプールに行った時は
息継ぎも出来なかったのに

そういえば
長女もある日突然泳げるようになったっけ

子どもは上達が早い
やる気にさえなってくれれば

ただ

自発的に"やる気"をみせてくれるまで
口を出さずに見守るのは
そうとうの忍耐が必要だ(苦笑)