医療における人権

 『もしも、私が70歳を過ぎてガンになったら、無治療でいい。その時、私が判断力や理解力に欠ける状態だったとしても、この意志を尊重して欲しい。』

闘病中の主人とそんな話をした事があった。

 子供や高齢者の場合は特に、どんな医療を受けるのか、受けたいのかは本人よりも親や家族の希望が優先されることが多いのだろう

現実的にそれは妥当な事だと思う

でも・・・

本当にそれでいいのだろうかと考えると

心が痛む


 
2010.09.07:主人:[白血病から考えたこと]

医療と神の仕事の境界

難しいですね、
と言うより、答えはないのではないだろうか。

臓器移植のために、脳死を受け入れ、人の死として臓器を提供すること。

あるいは、心臓の鼓動と体温を感じ、大切な人を想い、心をかけること。

どこにも間違いはない。

私も、あなたと同じく、無治療を望みたい。

答えがあいまいで、政治的理由や宗教的理由によるならば、それよりも自然に任せたい。


生まれた時から、死を受け入れることを求められます。
なぜ生まれ、なぜ生きるのかと、若かりし頃は悩み苦しみました。


生まれたから、苦しみも悲しみも喜びもここにある。
どうか、自然なままでありますように。

自然なままで、ありますように。

2010.09.12:くまっち:[編集/削除]

くまっちさんへ 

 白血病治療は、肉体的にもメンタル的にも、壮絶なものでした。本人はもちろん、家族も。

治らなくてもいいから、共存できないものかと、そんなことを幾度となく思いました。
 
 今、私には自分で守りたいものがあり、もし病に侵されたら、治癒を目指すでしょう

 でも、守るべきものが手を離れたら、自然に任せたい・・・
 そう願っています。
 
2010.09.12:noriko:[編集/削除]

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