小野川温泉 吾妻荘

小野川温泉 吾妻荘
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  学生時代、外人の先生に学校までどのぐらいの
  距離ですかと聞かれ、フォウリ(四里)と答え
  通じなかったのを悔しがっていました。一里が
  何マイルかわからなかったようです。12キロ
  を2時間から2時間半ぐらいかけて毎日徒歩で
  市内の学校まで通った訳です。冬は、矢来あたり
  に下宿して通いました。米沢市の助役を務めた
  赤芝の佐々木さんのお父さんが一級後輩で同じ
  下宿で友達だったそうです。

  階段を下りて湯船につかると湯があふれ
  したから、ボコボコと湯がわき上がってきます。
  自然湧出時代は、各旅館で浴槽を掘って底に板を
  敷いて、下から湯がわき上がって来るようになって
  いました。泉質も各旅館で違っていたものです。
  食塩泉、硫化水素は多少の含有量に違いがあったの
  ですが、ラドン、ラジウムといった放射能泉の含有
  成分は、上の湯と下の湯ではかなりの違いがありました。
  ですから、自ずと、ファンも異なっていたわけです。

  冬に、もやしが出来るとお得意様のお家を訪問
  し、春先、雪が解けると宿の準備をします。七輪
  に炭ををいれ、湯を沸かし、米をたきます。野菜
  を農家の方がもってきて、自炊するわけです。田植え
  の終えた、さなぶり湯と稲刈りを終えた晩秋の農閑期が
  最も宿の忙しい時期でした。冬は雪下ろしをしたり
  蚕をかったり、豆もやし、あさずきを栽培したりして
  いました。
 




   山に行って根狩りをしたり、枝下ろしをしたり
   池の鯉を揚げ切ったり煮たり、寡黙で勤勉だった
   ことを覚えています.日米戦がおわり、進駐軍が
   きて案内役に、英語が出来る人が村に誰もいなかった
   ので、させられたようですが、炭焼きで山から煙がで
   ているのを、フワット イズ ザットと質問されて
   カーボンと答え、相手が納得したという話を聞いています.


 

  遠藤金六。曾祖父が亡くなってからは六郎兵衛
  を襲名。大正5年に米沢中学(興譲館5年制)
  を卒業のはずですが、卒業名簿にみえない。3級
  したの弟、盛(さかん)が入学したので2人は学校
  にやれないと言うことで、3年までで退学した訳です。
  英語の先生がアメリカ人の女の先生だったと言う話し
  を聞いたことがあるので名簿をみるとワットソンという
  ながみえます。


写真中央、興譲館で.



   自転車すら普及していなかった、時代.高度
  成長期以前、あるいは戦前、学生は徒歩で市内の
  学校に通ったものです.冬も裕福でない家庭では、
  下宿できないので徒歩でした.2時間ぐらい、帰りは
  2時間半歩いたものだそうです.運良く、馬ぞりに
  とびのれれば少しは楽できたものでしょう.雪解けと
  ともに、蚕を置いておいた客室をかたずけ、宿の準備
  をするのです.昔は、ほとんどが湯治宿でした.
  種もやしといって、種籾を発芽させるため、もやし場
  に籾を運んできて、湯に着け、発芽させるのです.
  
  


  鯛を長いもではさみます.レモン、サーモン
  を添えます.

   牛刺しを長いもにはさみます.
   レモン、サーモンを添え、ドレッシング
   をかけ、赤たまねぎを載せます.

   館山りんごに蜜の入る季節となりました.
   これをゆで、こんぽーとにしてメレンゲを
   かぶせ、少しやきめをつけました.ミント  
   を乗せます.