小野川温泉 吾妻荘

小野川温泉 吾妻荘
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 南瓜、長薯、しめじ、茄子、
 天高く馬肥ゆる 秋の
 つまったグラタンです。
 

 御館山の小高い浄水場を超えて、簗沢村の
 入り口に明かり芝の集落が広がります。
 芝を灯して御神明としたのが地名になったものでしょう。
 向かって左奥の山の麓に羽黒神社が奉ってあります。
 
 この集落は、千坂兵部の家臣が簗沢村の新田開発に
 上杉藩政期の初頭に入り込んだものであり、いわゆる
 原方衆ですが、間口、奥共に規格が有って原方武家屋敷
 の風を今に残しています。幕末の赤芝部落の区割りです。
 名前も関東武士名や、新潟由来のものが見られますね。
 

 身が柔らかくさくっとして、酸っぱさがない
 柔らかい甘さ、お子様のおやつにグッド。
  
 御館山は読んで字のごとく、平井医院のあたりに
 正宗が産湯をつかった場所の史跡があり伊達、仁井田
 にゆかりの深い場所です。

 館山リンゴは、数軒軒を並べた露地物のもぎたてのリンゴ
 をご賞味下さい。 好みで数種類の中から撰べますよ。 

 安永2年、1773年 江戸中期に鷹山公は
 五十騎組の小野川荒れ地開発の労をねぎらうために 
 御宿 五兵衛で休憩されています。字 開発という
 地名が今の組合駐車場あたりに残っていますがその開発の
 名残でしょう。
  五兵衛とは、鶴屋旅館でこれが正式記録に残る小野川
 温泉旅館名の初見です。
 

 女将会が仕込んだ舞茸を軽く湯がいて
 煮汁にひたし、小鉢にもります。
 菊、枝豆、ワラビをそえて秋の
 女将小鉢できました。

 南蛮貿易を通してヨーロッパに伝わったとされる
 柿、日本原産種といわれビタミンCがレモンよりも
 豊富に含まれているそうです。

 吾妻の白猿が里に下りてきて木に実った柿を
 美味しそうに食べていますね。

 小町が顔を映して窶れた姿に驚いたといわれる
 鬼面川。嵐の日に鬼の姿のようなおそろしい
 暴れ方をするというもう一つの顔があります。
 天保2年(1831年)江戸時代後期、鬼面川
 氾濫し小野川塩取り場と藤屋弥兵ェ以北17戸
 流失すとあります。 
  洪水を防ぐことが火災の予防と共に住民の長い
 課題であったわけですが、明治19年(1886)
 小野川の120間堤防竣工するとあり今の姿に近い
 形になったものでしょう。

 イザベラ、バードは明治初頭 日本奥地紀行
 で米沢盆地を訪れ、東洋のアルカデアと表現
 しまいた。小松に一泊宿泊し 赤湯、上山を
 訪れています。
   原田城趾のダリア園も旬で次第に紅葉が
 里にゆっくりとおりてきます。

  小野川から車で15分、古代、成島の庄で知られれ、長井氏
  (大江広元の子孫)が創建したといわれる成島神社もある。
  上杉藩政期も崇敬篤く、士族が多すぎて貧乏藩だったので
  江戸中期鷹山公の藩政改革の一環として焼き物を藩内で
  生産する試みがなされた。成島焼きの始まりです。